佐久間盛政は柴田勝家の甥で、「鬼玄蕃」とも呼ばれた猛将です。
賤ヶ岳の戦いでは中川清秀を討ち取ったものの、羽柴秀吉の素早い反撃を受け、柴田軍敗北のきっかけをつくった人物としても知られています。
この記事では、佐久間盛政とはどんな人物なのか紹介します。
佐久間盛政の年表
| 年 | 説明 |
|---|---|
| 1554 | 尾張で佐久間盛次の長男として誕生。 |
| 1568 | 観音寺城の戦いで初陣を飾る。 |
| 1573 | 槇島城の戦い。 |
| 1576 | 柴田勝家に従って、加賀一向一揆に出陣。 |
| 1580 | 金沢城の初代城主となる。 |
| 1582 | 本能寺の変。 柴田陣営の将となる。 |
| 1583 | 賤ヶ岳の戦いで中川清秀を討ち取る。 合戦に敗れ斬首される。享年30。 |
佐久間盛政とは?
佐久間盛政(演:遠藤雄弥)は、織田信長(演:小栗旬)と柴田勝家(演:山口馬木也)に仕えた戦国武将です。
母が柴田勝家の姉とされるため、佐久間盛政にとって勝家は母方の叔父にあたります。盛政は勝家の先鋒として北陸を転戦し、加賀一向一揆や上杉方との戦いで活躍しました。


通称は「玄蕃」。
後世には、その勇猛さから「鬼玄蕃」「夜叉玄蕃」と呼ばれています。


一方、織田信長に追放された佐久間信盛(演:菅原大吉)や桶狭間の戦いで討ち死にした佐久間盛重(演:金井浩人)とは別人です。同じ佐久間一族ですが、詳しい続柄は明確ではなく、同族の遠縁とみられています。


佐久間盛政は金沢城の初代城主
1575年、織田信長は柴田勝家に越前の支配を任せました。盛政も勝家の与力となり、北陸で一向一揆との戦いに参加します。
1580年、尾山御坊の跡に置かれた金沢城の初代城主とされ、加賀の支配を担いました。
「佐久間盛政は最強だった」とまでは断定できませんが、北陸の軍事と地域支配を任されたことから、柴田軍を代表する猛将だったといえるでしょう。


佐久間盛政は賤ヶ岳で中川清秀を討ち取る
1582年、本能寺の変で織田信長が亡くなると、織田家の主導権を巡って羽柴秀吉(豊臣秀吉, 演:池松壮亮)と柴田勝家が対立しました。
翌1583年、両者が激突したのが賤ヶ岳の戦いです。
秀吉が美濃方面へ移動した隙を突き、盛政は中川清秀が守る大岩山砦を急襲。砦を攻略し、中川清秀(演:すがおゆうじ)を討ち取りました。
しかし、盛政は勝家の撤退命令に従わず、前線にとどまったため、柴田軍敗北の「戦犯」と呼ばれることがあります。
ただし、勝家が何度も撤退を命じたという話は、主に後世の軍記物に記されたものです。会話の内容まで史実と断定することはできません。
盛政が撤退の時機を逃したことは敗因の一つですが、秀吉の帰陣が予想以上に早かったことや、前田利家軍が戦場を離れたことも柴田軍の敗北につながりました。
盛政は無能だったのではなく、攻撃に成功したことで深追いし、その積極策が裏目に出たと考えられます。


佐久間盛政の最期
賤ヶ岳で敗れた盛政は越前まで逃れましたが、山中で捕らえられ、秀吉のもとへ送られました。
後世の「川角太閤記」などには、秀吉が盛政の武勇を惜しんで家臣になるよう誘ったものの、盛政が柴田勝家への忠義を理由に拒否したという逸話があります。
盛政は京都市中を引き回されたのち、斬首されたと伝わります。享年30でした。
佐久間盛政の子孫は?娘・虎姫が中川秀成に嫁ぐ
佐久間盛政の娘・虎姫は、賤ヶ岳で盛政が討ち取った中川清秀の次男・中川秀成に嫁ぎました。


この婚姻は豊臣秀吉の取り計らいによるものと紹介されていますが、詳細は不明です。
中川秀成は豊後岡藩(大分県)の初代藩主となり、虎姫との間に生まれた中川久盛が2代藩主を継ぎました。盛政の血筋は、娘を通して岡藩中川家に受け継がれたのです。
虎姫の願いにより、1644年には大分県竹田市に盛政の菩提寺である英雄寺が建立されました。


まとめ
大河ドラマ「豊臣兄弟!」で遠藤雄弥さんが演じる佐久間盛政は、柴田勝家の甥として北陸を転戦した「鬼玄蕃」と呼ばれる猛将です。
賤ヶ岳の戦いでは中川清秀を討ち取りましたが、秀吉の素早い反撃によって敗北。捕らえられたのち斬首され、30歳で生涯を終えました。
「豊臣兄弟!」では、秀吉・秀長兄弟の前に立ちはだかる佐久間盛政が、どのような猛将として描かれるのかに注目です。
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