大河ドラマ「豊臣兄弟!」に登場する桑山重晴。
桑山重晴は、豊臣秀長の筆頭家老として軍事と領国支配を支えた武将です。
この記事では、桑山重晴の前半生や秀長との関係、和歌山城、関ヶ原の戦い、子孫について紹介します。
桑山重晴の年表
| 年 | 説明 |
|---|---|
| 1524 | 尾張で生まれる。 |
| ?? | 丹羽長秀の与力となる。 |
| 1582 | 豊臣秀長の配下となる。 |
| 1583 | 賤ヶ岳の戦いで賤ヶ岳砦を守る。 |
| 1585 | 紀州征伐に参戦。 |
| 1591 | 豊臣秀長が亡くなる。 |
| 1595 | 豊臣秀保が亡くなり大和大納言が断絶する。 豊臣秀吉に仕える。 |
| 1596 | 修理大夫の官位を孫の「一晴」に譲り、隠居する。 |
| 1598 | 豊臣秀吉が亡くなる。 |
| 1600 | 関ヶ原の戦いに東軍に属して和歌山城を守る。 |
| 1606 | 享年83。 |
桑山重晴は丹羽長秀と羽柴秀吉に仕えていた?
桑山重晴(演:住田隆)は1524年、尾張国で生まれました。
父親は、「桑山以則」とする説と「桑山定久」とされています。
桑山重晴の生まれた桑山家は鎌倉幕府の有力御家人・結城朝光の子孫と伝えられていますが、詳細は不明です。


結城朝光は「鎌倉殿の13人」にも登場していましたね


桑山重晴は、織田信長の重臣・丹羽長秀(演:池田鉄洋)の与力だったとされており、姉川の戦いに出陣しました。
一方、1575年の「竹生島文書」には、羽柴秀吉(豊臣秀吉, 演:池松壮亮)の奉行衆として重晴の署名が確認されています。この頃の重晴は、丹羽家に属しながら秀吉のもとでも実務を担う、両属に近い立場だったと考えられています。
その後、1582年頃には1万石を領し、秀吉の弟である羽柴秀長(豊臣秀長, 演:仲野太賀)の配下となりました。賤ヶ岳の戦い後、重晴は秀長の城であった竹田城主に任じられました。


竹田城主となったときすでに57歳で遅咲きの出世でした
桑山重晴は賤ヶ岳砦を放棄した?
1583年4月、織田信長(演:小栗旬)亡き後の覇権を巡り、羽柴秀吉と柴田勝家(演:山口馬木也)が激突した賤ヶ岳の戦いが勃発しました。この戦いにおいて、重晴の冷静な判断力が光ることとなりました。
重晴は賤ヶ岳砦の防衛を担当しており、柴田軍の猛将・佐久間盛政(演:遠藤雄弥)による猛攻を受け、羽柴方である中川清秀(演:すがおゆうじ)の大岩山砦が陥落し、中川自身も討ち死にするという壊滅的な状況に直面します。さらに高山右近(演:市川知宏)の部隊も敗走を余儀なくされ、秀吉方の前線は崩壊の危機に瀕していました。
この極限状況において、重晴は冷静な判断を下します。
無謀な玉砕を避け、戦況を慎重に見極めながら、夜明けとともに砦を放棄して撤退したのです。この判断は結果的に秀吉の来援までの時間稼ぎとなり、戦功として認められました。
戦後、羽柴秀長でなく、丹羽長秀から加増を与えられ、重晴の知行は2万石となりました。


「豊臣兄弟」も賤ヶ岳の戦いから登場しましたね
桑山重晴は和歌山城主に
1585年、桑山重晴は豊臣秀吉による紀州征伐に参戦しました。その際重晴は、自ら首級をあげる手柄があげました。
この功績から、秀長が大和国に移ると、桑山重晴は和歌山城の城主(一説には城代)になったとされています。


秀長は大和郡山城を本拠とし、重晴は秀長の代理として和歌山城から紀州支配を担当しました。


和歌山城の築城には藤堂高虎も関わっています
秀長の死後は豊臣秀吉に仕える
1591年、主君の豊臣秀長は亡くなりました。
重晴は秀長の死後、その養嗣子で大和郡山城主となった豊臣秀保に仕えます。


豊臣秀保はともの三男ですね
しかし1595年、秀保が亡くなり、大和大納言家が断絶すると、重晴は再び秀吉の直臣となりました。
この頃、剃髪して「治部卿法印」と称するようになります。


この時はすでに72歳ですからね
1596年、修理大夫の官位を孫の一晴へ譲って退隠しました。ただし完全に政治の場から離れたわけではなく、秀吉の御伽衆となっています。
秀吉が亡くなった1598年には、遺物として金15枚を受け取りました。


重晴の嫡男「一重」はすでに亡くなっていたため、
嫡孫「一晴」が後を継ぎました
関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍に属した
1600年の関ヶ原の戦いでは、重晴と孫の一晴は徳川家康(演:松下洸平)の東軍に属しました。
家康は使者を通じ、西軍方の増田長盛(秀長、秀保のその領地を治めていた)の所領を与えるという加増の約束を重晴へ伝えています。
重晴と一晴は和歌山城を守り、東軍の勝利後も徳川政権のもとで所領を認められました。その後、重晴は嫡孫一晴に御所1万6千石、次男の元晴に1万石を分け、自身は和泉国谷川の1万石を保持します。


重晴は豊臣秀長の筆頭家老でありながら、関ヶ原後の徳川主導の政権にも柔軟に対応し、外様大名として所領を保ちました。
しかし、重晴の子たちは子ができない問題があり、3つあった藩はすべて改易となり、かろうじて旗本として存続しました。


桑山重晴の墓は和歌山城の近くの菩提寺にあります
まとめ
桑山重晴は豊臣秀長の筆頭家老です。
紀州征伐後は和歌山城へ移り、秀長のもとで紀州支配を担当しました。秀長の死後は豊臣秀保、秀吉へ仕え、関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍に属します。
派手な武勇だけでなく、複数の主君と政権に対応し、城と領国を任された実務能力の高い武将だったといえるでしょう。
「豊臣兄弟!」では、秀吉を支える秀長と、その秀長をさらに支える重晴が、どのような主従関係を築くのか注目です。
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