【大河ドラマ・豊臣兄弟!】石川数正(キャスト:迫田孝也)はなぜ秀吉に寝返った?その後は? 年表 家系図

大河ドラマ

大河ドラマ「豊臣兄弟!」に登場する石川数正いしかわかずまさ。

石川数正は、徳川家康の重臣として内政と軍事の両面から支えた武将です。

この記事では、石川数正がなぜ徳川を見捨てて出奔したのかについて解説します。

石川数正の年表

年説明
1533石川康正の子として三河で生まれる。
??徳川家康が今川家の人質時代から近侍として仕える。
1560桶狭間の戦い。
徳川家康が独立する。
1562清洲同盟成立に貢献する。
1569西三河の旗頭となる。
1579松平信康が切腹する。
岡崎城代となる。
1582本能寺の変で織田信長が亡くなる。
羽柴秀吉との交渉役となる。
1584小牧長久手の戦い。
1585徳川家を出奔する。
1590信濃松本10万石に移封される。
松本城を改築する。
1593京都で亡くなる。

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石川数正と徳川家康は縁戚関係

石川数正(演:迫田孝也)は三河に石川康正の子として生まれました。石川家は源氏の末永で、石川源氏と称し、後に三河に移り住みました。

実は、石川数正と主君の徳川家康(演:松下洸平)は縁戚関係にあります。数正の祖父・清兼の妻の如春尼の姉が、家康の生母・於大の方にあたります。

歩兵くん
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筆頭家老の酒井忠次も家康と縁戚関係ですね

石川数正はなぜ出奔したのか

石川数正は徳川家康が今川義元(演:大鶴義丹)の人質であった頃から近侍であったが、1585年に突如、敵方である豊臣秀吉(羽柴秀吉, 演:池松壮亮)のもとに出奔しました。数正は徳川家の内情を知り尽くしていたため、この出奔は徳川家にとって大きな痛手でした。

では、なぜ石川数正は徳川家から出奔したのでしょうか?

出奔までの道筋は次の通りと考えられています。

① 小牧長久手の戦いの和睦条件で、家康の次男結城秀康や数正の長男と次男を人質とする

② 真田が徳川との関係を絶ち、徳川軍に攻め込まれるが、勝利する

③ 徳川劣勢をみた信濃の国衆・小笠原貞慶が秀吉に寝返り、小笠原との交渉役であった数正は責任を取らされる

④ 秀吉からの再三にわたる追加の人質要請を無視し、従属を拒否する

⑤ 秀吉との交渉役の数正は徳川家での立場を失う

⇒追い詰められた数正は徳川家を出奔する

歩兵くん
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順に解説していきます

①小牧長久手の戦いの和睦による人質

小牧長久手の戦いの局地戦は徳川の勝利でしたが、政治的には織田信雄(演:山脇辰哉)を味方につけた豊臣の勝利でした。

そのため、両者は和睦することとなり、徳川から豊臣に人質を差し出すこととなりました。

このときに、石川数正の次男も人質として秀吉のもとで人質生活することになりました。

徳川からの人質
・於義伊(結城秀康) : 徳川家康の次男
・勝千代(石川康勝) : 石川数正の次男
・仙千代(本多成重) : 本多重次の次男

歩兵くん
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秀吉側が優勢だったので秀吉側からの人質はありません

徳川が真田に敗れる

真田は徳川に従っていましたが、上野沼田の領有権を巡って争いが起こったため、手切れとなり、徳川が真田昌幸の上田城に攻め込ました。(第一次上田合戦)

真田はわずかな勢力しか有していませんでしたが、見事な策略により徳川軍を打ち破りました。

この勝敗により、徳川家の信用は落ちてしまいます。

歩兵くん
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真田は国衆で徳川は大名ですからね

周辺の勢力は不安になってしまいます、、、

小笠原貞慶の寝返り

徳川の敗北を目の当たりにした信濃の国衆・小笠原貞慶おがさわらさだよしは徳川から豊臣に寝返りました。

石川数正は小笠原貞慶との交渉役を担当していたため、寝返りの責任を問われ、家康からの信用を落としてしまいます。

歩兵くん
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小笠原貞慶の寝返りと石川数正の出奔はどちらが先かというのは諸説があります

家康が秀吉への強硬姿勢を継続

徳川と豊臣は和睦を結んでいましたが、秀吉は再三に渡って従属を要求し、その証として追加の人質を要求しました。

しかし、家康は小牧長久手の戦いでの勝利や北条と強固な関係にあることを理由に要求を無視し続けました。

歩兵くん
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家康は自身の娘・督姫を北条氏直に嫁がせています

数正は徳川家の立場を失い出奔

数正は秀吉との交渉役を担当しており、家康が強硬姿勢を取ったことで徳川家での立場をさらになくしました。

また、家康がこのまま強硬姿勢を続け、再び豊臣と戦になった場合には、人質となっている自身の次男の命はありません。次男を救うには、自身が秀吉に臣従するしかありません。

こうした、複合的な要因から数正は徳川家を出奔することになりました。

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石川康輝から石川吉輝に改名

石川数正は、出奔する直前の1585年頃、「数正」から「康輝」へと名を改めていました。

「康」の字は家康から与えられたもので、数正が家康から厚い信頼を寄せられていたことがうかがえます。

しかし、徳川家を出奔して秀吉の配下となった後、数正は「康輝」から「吉輝」へと改名しました。家康の「康」の字を捨て、新たに秀吉の「吉」の字を名乗ったことは、徳川家との決別と、秀吉への忠誠を示す象徴的な改名だったといえます。

歩兵くん
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武将の名前は重要なもので

政治的な意味も込められていました

さらに徳川家臣時代、数正は「伯耆守」を称していましたが、秀吉に臣従した後には「出雲守」に任じられています。

これは、関白として朝廷に強い影響力を持っていた秀吉ならではの方法でした。家康から与えられた「康」の字を捨てさせるだけでなく、官職名まで改めさせることで、秀吉は数正と徳川時代の名残りを断ち切り、自らの家臣として取り込もうとしたと考えられます。

石川数正の最後

徳川家を出奔した石川数正は、豊臣秀吉から河内8万石を与えられ、家臣として仕えました。

1590年の小田原征伐で北条家が滅亡すると、徳川家は関東に移り、数正は家康の所領であった信濃松本10万石に加増移封されました。数正は雄大な松本城を築き、街道をつないで流通機構を掌握するための城下町の建設、天守閣の造営を行いました。

そして、数正はこの地で秀吉の家臣として、関東にいる家康の動きを見張ることになります。

歩兵くん
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松本城は現存天守として今もその雄大な姿を残していますね

松本城。現存天守かつ国宝天守。

数正は新たな領地で国作りに取り組んでいましたが、1593年に病で死去しました。

数正の後は、長男の石川康長が継承しました。康長は関ヶ原の戦いで東軍に与し、再び徳川家に仕えることになり、信濃松本藩の初代藩主となります。

しかし1613年、幕府の要人であった大久保長安事件に連座して改易となります。康長とその弟たちは改易となり、石川数正の家は大名家から姿を消しました。

歩兵くん
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江戸幕府初期に行われた外様外しの一環とか

松本城があまりに雄大であったことが要因ともいわれています

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まとめ

石川数正は

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