[5分でわかる!]天下人徳川家康を翻弄し続けた真田昌幸!!

戦国武将
ひろ
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真田昌幸といえば、徳川家康を何度も追い込んだことで有名な武将やな

豊臣秀吉
豊臣秀吉

昌幸の息子真田幸村も有名じゃな

ひろ
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真田親子は家康を苦しめ続けたんやなー

それでは真田昌幸の生涯をみていこう!!

真田昌幸の年表

ひろ
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幼い頃に武田信玄のもとで人質生活をしたことで、

天才的な軍略を身に着けたんやろなー

豊臣秀吉
豊臣秀吉

初陣が大荒れの川中島の戦いとはつらいのー

真田昌幸。「表裏比興の者ひょうりひきょうのもの」と豊臣秀吉からいわれていた。(幸正所蔵)

真田昌幸の相関図

ひろ
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昌幸が長男信行徳川家と関係をもたせたことはやっぱりすごいなー

豊臣秀吉
豊臣秀吉

信行の正室小松姫は父本多忠勝に似て気の強い女性じゃった

真田幸村。幼少のころは豊臣秀吉の人質として過ごした。(上田市立博物館所蔵)

真田昌幸の誕生

真田昌幸さなだまさゆきは1547年、信濃(長野県)に真田幸隆の三男として生まれました。昌幸が生まれたころ、真田家は「甲斐の虎」といわれた武田信玄に仕えていました。そのため、昌幸は武田家の人質として幼少期を過ごしました。

ひろ
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戦国時代では、家臣の子が人質として送られることは珍しいことではないよ

徳川家康も、今川義元の人質だったしなー

真田幸隆。合戦で活躍して「攻め弾正」といわれた。(長野県長野市松代町長国寺所蔵)

軍略の英才教育!!

武田家の人質となった昌幸は学問や軍略の英才教育を受けて、武田信玄の奥近習衆に加わります。そして15歳の時に第4次川中島の戦いで初陣を飾りました。

ひろ
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第4次川中島の戦いは、武田信玄上杉謙信との合戦の中で最も激しくて、両軍ともたくさん死傷者を出した戦いやで

武田信玄が病で亡くなると、真田家は武田家次期当主である武田勝頼に仕えました。また、父幸隆が亡くなると、真田家の当主は長男真田信綱へと代わります。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

信玄が亡くなったことで、武田家を離れていった武将も少なくないぞ

信玄が亡くなったことで織田信長は武田領へ侵攻を開始し、長篠の戦いが勃発。この戦いで昌幸の兄信綱昌輝が亡くなってしまいます。兄2人がいなくなったため、昌幸が真田家の家督を継ぐことになりました。

ひろ
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三男だった昌幸は武田家臣の武藤家の家督を継いでいたんだけど

真田家が滅亡の危機だったから戻ってきたんやなー

武田信玄。信玄のカリスマ性から多くの武将が集まった。(川中島百勇将戦之内)

主家の滅亡!!

武田信玄を亡くした武田家は徐々に衰えてゆき、織田信長によって滅ぼされてしまいました。主君を失った昌幸は信長に仕えることになります。

ところが本能寺の変が起きて信長が亡くなると、旧武田領で反乱が勃発。この反乱に乗じて、徳川家康上杉景勝北条氏政は勢力拡大をはかります。昌幸は真田家の生き残りのため、上杉→北条→徳川と主君を転々とします。

ひろ
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弱小勢力が生き残るには

主君を変えていくしかないからなー

徳川家の家臣となっていた昌幸でしたが、領土問題により徳川家康と対立。合戦へと発展します。家康は8000の兵を率いて、上田城へ侵攻。対する真田軍は徳川軍の4分の1の兵力と圧倒的に不利な状況でした。

ところが昌幸の天才的な軍略により、家康を返り討ちにします。

ひろ
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徳川軍には多数の犠牲者がでたけど

真田軍の犠牲者はかなり少なかったみたい

その後家康は軍を整えて再び真田領へ侵攻しようとしましたが、昌幸が天下人豊臣秀吉に臣従したことにより、対立はおさまりました。

上田城。天然の要塞であり、難攻不落の城といわれた。(wikipedia)

再び始まる徳川との争い!!

天下人豊臣秀吉が亡くなると再び天下が動き始めます。石田三成徳川家康との間で関ヶ原の戦いが勃発すると、昌幸は次男幸村とともに西軍につきました。ところが、長男信之は徳川家康の重臣本多忠勝の娘と結婚していたため、東軍につきました

これにより東軍と西軍のどちらが勝利しても真田家が存続することが可能となったわけです。

ひろ
ひろ

昌幸ほどの名将でも関ヶ原の戦いでどちらが勝利するかわからなかったんやなー

関ヶ原の戦いに連動して、家康の息子徳川秀忠が約4万もの兵を率いて上田城へ侵攻。これにより第二次上田合戦が勃発。昌幸はたった2千の兵で迎え討ちますが、またも昌幸の天才的な軍略により、秀忠を返り討ちにしています。

結局、昌幸がついた西軍は敗れてしまいました。昌幸と幸村の力を恐れた家康は昌幸たちに切腹を命じようとしました。ところが長男信之が家康に交渉したことにより、昌幸たちは紀伊(和歌山県)の九度山くどやまへの蟄居ちっきょですみます。

ひろ
ひろ

昌幸は2度と九度山からでることはなかったけど

昌幸の跡を継いだ幸村大坂の陣で大活躍して、再び家康を苦しめるよ

徳川家康。昌幸は策略家であることから昌幸の死
を信じていなかった。
(大阪城天守閣蔵)

まとめ

真田昌幸は天才的な軍略により、徳川家康を苦しめ続けた生涯でした。九度山に入る前昌幸は次のように言ったといいます。

さてもさても口惜しきかな。内府徳川家康をこそ、このように蟄居してやろうと思ったのに

ひろ
ひろ

昌幸は、自分には家康に勝利できる十分な実力があると思っていた自信のあらわれやなー

真田昌幸。蟄居の生活が退屈過ぎたとの記録を残している。(川中島百勇将戦之内)

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