
榊原康政は徳川家康に仕えた重臣で徳川四天王といわれた武将やな

幼い頃から家康に仕え、
家康から「康」の字を賜っておるしな

かなり深い信頼関係を築いていたんやなー
それでは榊原康政の生涯をみていこう!
榊原康政の年表




譜代大名のわりに恩賞が少ないなー


康政は「自分が政治に参加して権力争いをすれば、徳川家を滅ぼしかねない」と考えて
静かに余生をすごしたんじゃ


榊原康政の相関図




同い年だった本多忠勝とは仲がよかったようで
長篠の戦いでは戦功を競い合ったというよ




榊原康政の誕生
榊原康政は1548年、三河(愛知県)に榊原長政の次男として生まれました。この頃、榊原家は松平家に仕えていた酒井家に仕えており、松平家の陪臣という立場でした。
またこの頃の東海道地方では、駿河(静岡県)の大名今川義元や尾張(愛知県)の大名織田信秀などが覇権を握っており、主家の松平家はまだまだ小さな家でした。


陪臣は家臣の家臣という立場やな


家康に仕えて出世!
徳川家康が7歳の時、今川家へ人質に出されます。このとき、康政は家康と年齢が近かったこともあり、家康の小姓(お供)となりました。


陪臣の身だった康政が家康の小姓になれたのは
頭が良くて武功にも優れていたからやろなー
織田信長が今川義元に奇襲攻撃を仕掛けて桶狭間の戦いに勝利すると、松平家は今川家から独立。家康は織田信長と同盟を結びます。
ところが、領内の三河で一向一揆が起きてしまいます。松平家の家臣の多くが一揆衆に加担しましたが、康政は家康に味方してこの一揆を鎮圧しています。この功績が認められて、家康から「康」の字を賜りました。


この一揆の後、家康は松平から徳川へと名前を変えたんじゃ
主君徳川家康が同盟相手である織田信長とともに姉川の戦いや長篠の戦いなどに合戦を起こすと、康政はこれに従って出陣し、武功をあげています。


合戦で追い詰められると、家康はすぐに切腹しようとしたから康政たちがなだめたというよ
本能寺の変が起こると、全国各地で反乱が勃発。このとき堺(大阪府)にいた家康はまたも切腹するといいだしましたが、康政ら重臣がなだめて三河へ帰国することを決意。
家康一向はわずかな手勢で落武者狩りを避けながら三河へ帰国することに成功しました。このとき康政は家康の首を狙ってくる者を200人も倒したといいます。


伊賀越えの際には、服部半蔵などの伊賀衆が道案内したというよ
また徳川家康と豊臣秀吉が小牧長久手の戦いを起こすと、康政は秀吉に挑発する文章を送りつけました。
「豊臣秀吉は織田信長の家臣にもかかわらず、主君の家臣達と敵対し、息子達まで倒した八逆賊の者だ!そのような秀吉に味方すれば、天罰が下るに違いない」と挑発。
これに怒った秀吉は康政の首に10万石もの懸賞をかけたといいます。ところが、小牧長久手の戦いが終わり、家康と秀吉が和睦すると、秀吉は康政を許して従五位下・式部大輔の位を授けています。


10万石の懸賞とはすごいなー
いまでいうと5億円くらいの懸賞かなー


関ヶ原の戦いに遅れる大失態!?
豊臣秀吉が亡くなると再び天下が動き始め、関ヶ原の戦いが勃発。康政は家康の息子・徳川秀忠のお目付け役として、秀忠とともに関ヶ原へ向かいました。
秀忠隊は道中、真田領に侵入し、真田昌幸と合戦を繰り広げます。ところが、秀忠はわずかな手勢の真田軍に翻弄されてしまい敗北。結局関ヶ原の戦いに間に合わず、秀忠はこっぴどく家康から怒られてしまいます。


徳川家は真田家に一度負けておるから今度こそは勝利したかったんじゃろなー
このとき康政は家康の機嫌をとりなして、秀忠との関係を取り持ちました。


康政たちは真田昌幸と合戦することを避けようと秀忠に進言したけど
秀忠が意見を聞かなかったというよ


まとめ
榊原康政は武勇に優れ、頭のよい実力のある武将でした。徳川家にはこうした優秀で忠誠心が強い家臣が多くいたため、徳川家康は天下をとることができました。


旧武田家臣を徳川家に取り込んだのも、徳川軍が強くなった要因やろなー




ちなみに康政の跡をついだ榊原康勝はかなり痔に悩んでいたというよ
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