
そろそろ長宗我部元親が本格登場します
磯部寛之さんが演じていますね

四国を平らげたなかなかの強者じゃな
わしの弟・豊臣秀長を総大将に送り込んで降伏させたんじゃ

「土佐の出来人」と呼ばれた名将ですが、晩年は悲しい出来事も、、、
それでは長宗我部元親の生涯をみてみましょう!
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長宗我部元親の年表
| 年 | 説明 |
|---|---|
| 1539 | 長宗我部国親の子として誕生する。 |
| ?? | 色白で弱々しく「姫若子」と揶揄された。 |
| 1560 | 長浜の戦いで初陣を飾り、「鬼若子」と称される。 |
| 1575 | 一条氏を退け、土佐をほぼ統一する。 |
| 1575 | 織田信長から四国の制圧を許可される。 |
| 1582 | 織田信長から一方的に四国の領有を拒否される。 |
| 1582 | 織田信長が亡くなり四国制圧を再開する。 |
| 1585 | 阿波・讃岐・伊予へ進出し、四国の大半を制圧する。 |
| 1586 | 戸次川の戦いで嫡男・長宗我部信親を失う。 |
| 1590 | 小田原征伐に従軍する。 |
| 1592 | 文禄の役に従軍する。 |
| 1597 | 慶長の役に従軍する。 |
| 1599 | 病で亡くなる。享年61。 |


長宗我部元親とは?「姫若子」と呼ばれた幼少期
長宗我部元親(演:磯部寛之)は、土佐国(高知県)を本拠とした戦国大名で、長宗我部氏の第21代当主です。
一代で土佐を統一し、さらに四国全域へと勢力を広げた名将で、その卓越した手腕から「土佐の出来人」と称えられました。長宗我部氏は、古代に渡来した「秦氏」の末裔を称した家柄でした。
意外なことに、幼い頃の元親は色白で物静かな性格だったため、家臣たちから「姫若子」とあだ名されていました。武芸や戦に関心を示さない様子に、周囲は次の当主としての将来を不安に思っていたといわれます。


豊臣兄弟でも「姫若子」について語られていましたね
初陣・長浜の戦いで「鬼若子」へ
その評価が一変したのが、1560年の長浜の戦いです。
22歳でようやく初陣を迎えた元親は、戦の直前に家臣へ槍の使い方を尋ねたという逸話が残るほどでした。ところがいざ戦が始まると、自ら先頭に立って敵陣へ突撃し、見事な働きを見せます。これを境に人々は元親を「鬼若子」と呼び、その勇猛さを称えるようになりました。
この初陣の雄姿は、高知市長浜の若宮八幡宮に建つ「長宗我部元親初陣之像」として今に伝えられています。槍を高々と掲げた勇壮な銅像で、元親ファンが訪れる定番スポットのひとつです。


長宗我部元親の四国統一と一領具足
父・長宗我部国親の死後に家督を継いだ元親は、本山氏・安芸氏・一条氏といった土佐の有力勢力を次々と攻略し、1575年ごろには土佐をほぼ平定しました。その勢いのまま阿波(徳島県)・讃岐(香川県)・伊予(愛媛県)へと進出し、1585年の春までに四国の大半を支配下に置きました。これが長宗我部元親の四国統一と呼ばれる偉業です。
この快進撃を支えたのが、一領具足と呼ばれる半農半兵の地侍たちでした。
彼らは普段は田畑を耕しながら、一領の武具を手元に備えておき、戦が起これば即座に駆けつけたのです。この仕組みによって、長宗我部氏は領地の規模以上の兵力を低コストで動員でき、これが軍事力の根幹となりました。
長宗我部元親と豊臣秀吉・秀長の四国攻め
元親が四国統一を成し遂げた頃、中央では羽柴秀吉(豊臣秀吉, 演:池松壮亮)が天下統一へと邁進していました。秀吉は元親に降伏を促しますが、これに応じなかったため四国攻めが開始されます。
このとき四国へ攻め込んだ豊臣軍の総大将を務めたのが、秀吉の弟・羽柴秀長(豊臣秀長, 演:仲野太賀)でした。
大軍の前に各地の城は次々と陥落し、抵抗を続けた元親もついに降伏します。降伏した元親に対し、秀吉は土佐一国の領有のみを認めました。四国全域に広げた領地の大半を失いましたが、長宗我部氏は大名として存続を許され、以後は豊臣政権に従う立場となります。
嫡男・信親の死と後継問題(戸次川の戦い)
秀吉の家臣となった元親に、生涯最大の悲劇が訪れます。
1586年、九州征伐に従軍した長宗我部軍は、豊後(大分県)での戸次川の戦いで島津軍に大敗。元親が後継者として深く期待していた嫡男・長宗我部信親が討ち死にしてしまいました。
文武に秀でた信親の死は、元親に計り知れない衝撃を与えます。
一説には、悲嘆のあまり自害しようとしたとも伝わるほどでした。信親を失った元親は、四男の長宗我部盛親を跡継ぎに指名しますが、年長の兄たちを差し置いての決定だったため家中は動揺し、後継問題は長宗我部氏に大きな影を落とすことになります。


仙石秀久のせいで信親は討ち死にしてもうたんじゃ
秀久には厳罰を下したぞ
長宗我部元親の死因と最期
晩年の元親は領国の体制づくりに力を注ぎ、1597年には家中の決まりを定めた分国法「元親百箇条(長宗我部氏掟書)」を制定しています。
そして1599年、長宗我部元親は伏見の地で生涯を閉じました。享年61。
死因は病によるものとされ、最愛の嫡男に先立たれた悲しみを抱えたままの最期でした。元親をまつる神社として、高知市長浜の秦神社が知られています。長宗我部氏が「秦氏」の末裔を称したことにちなんだ社名ですね。


秦氏は4-5世紀に朝鮮半島から日本に移住してきた渡来人ですね
長宗我部元親の家紋
長宗我部氏の家紋は、七つ酢漿草です。
酢漿草はハート形の葉を持つ身近な植物で、繁殖力が強いことから子孫繁栄の願いが込められた、武家に好まれた家紋でした。中央の葉を七つの剣で囲んだ意匠が、長宗我部氏の旗印として知られています。


長宗我部元親の子孫・家系図・現在
元親の死後、跡を継いだ四男・盛親の代に、長宗我部氏は大きな転機を迎えます。
長宗我部盛親は1600年の関ヶ原の戦いで西軍に与し、戦後に領地を改易されて大名の座を失いました。
その後、盛親は大坂の陣で豊臣方として再起を図りますが、徳川方に敗北。戦後に捕らえられて処刑され、ここに大名としての長宗我部宗家は断絶しました。元親が一代で築き上げた家は、大坂の陣でその歴史に幕を下ろしたのです。
とはいえ、長宗我部一族の血筋そのものが完全に絶えたわけではありません。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」での長宗我部元親
大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、長宗我部元親を磯部寛之さんが演じます。大河ドラマでは始めて、長宗我部元親に配役されました。


四国の英雄・元親は、四国攻めや九州征伐といった豊臣政権を扱う場面で登場が見込まれる重要な武将です。秀吉・秀長兄弟の前に立ちはだかる四国の覇者を、磯部さんがどう演じるのか注目ですね。


秀長の四国攻めに立ちはだかる敵なのでクローズアップされるでしょうね
なお、長宗我部元親は「戦国BASARA」「戦国無双」「信長の野望」「モンスターストライク」などの人気ゲームにも個性的なキャラクターとして登場し、若い世代にも広く知られています。ファンの間では、元親を主役にした大河ドラマの実現を望む声も根強くあります。


長宗我部元親が主人公になることはあるのでしょうか
まとめ
長宗我部元親は、「姫若子」と侮られた少年から「鬼若子」へと変貌し、一領具足を率いて土佐統一、さらには四国統一までを成し遂げた稀代の戦国大名でした。
豊臣秀吉・秀長の四国攻めへの降伏や嫡男・信親の死という苦難を経ながらも、最後まで土佐の地を守り抜いた「土佐の出来人」です。盛親の代に長宗我部宗家は断絶しましたが、四国にその名を刻んだ元親の生涯は、今なお多くの人を惹きつけてやみません。
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