
豊臣秀長は兄の豊臣秀吉よりも10年も早く亡くなってしまいましたが
なぜでしょうか?

豊臣家を支えてくれる
身近な有能な人物だっただけに惜しいのー

今回はなぜ豊臣秀長が早死にしてしまったのか
その最期について迫っていきましょう!
豊臣秀長の生涯をまだお読みではない方はこちら↓
豊臣秀長の最期
豊臣秀長が亡くなったのは1591年1月22日で、享年52歳でした。場所は領国である大和国・郡山城で、その生涯を閉じました。前年の1590年7月には、兄・豊臣秀吉が小田原征伐で北条氏を滅ぼし、天下統一を成し遂げており、そのわずか半年後の出来事でした。
豊臣秀長は52歳で亡くなる


兄・秀吉の天下をみれたのはよかったですね
豊臣秀長は蓄財を好んだとされ、居城である郡山城には莫大な金銀が残されていたことが、「多聞院日記」に記されています。
九州征伐の際には、米を他の武将に売りさばき、高利貸しを支援していたとも伝えられています。
このような逸話から、温厚で誠実な人物として知られる一方で、実は守銭奴であったとも言われています。


少年時代に秀吉とともに極貧生活を過ごしていた反動からかもしれませんね


亡くなったときには6万5千枚の金子が部屋に保管されていた。
豊臣秀長が守銭奴かについて詳しく解説↓
豊臣秀長の死因
豊臣秀長の諸説あり、病死説、毒殺説などがあります。それぞれについて解説していきます。
病死説
豊臣秀長の死因として最も有力とされているのが、「病死説」です。
当時の医療記録や公的文書には具体的な病名は記されていませんが、秀長は1586年頃から病気療養のため湯治に通うようになったことが記録されています。1589年頃から病状が悪化し、1590年の小田原征伐には出陣できず、その翌年に亡くなりました。


亡くなる2、3年程前から日射病に悩まされていたようです
秀長が長期にわたって体調を崩していたという記録から、研究者の間では「結核」や「肝臓病」などの持病があったと推測されており、なかでも「肝硬変」や「胃がん」などの内臓系の慢性疾患が有力視されています。
秀長は兄・秀吉のもとで長年にわたって政務や軍事を担う激務をこなしており、過度なストレスや不規則な生活が健康を蝕んでいった可能性も高いと考えられます。
病死説が最も有力
毒殺説
豊臣秀長が比較的早く亡くなったことから、毒殺説が囁かれることがあります。
「医学天正記」によると秀長の症状は、激しい腹痛、嘔吐、下痢といった消化器系の異常が見られます。これらは、典型的なヒ素中毒の症状と一致しており、疑念を呼んでいます。
ヒ素は戦国時代、政敵の排除や密かな暗殺に用いられていた毒物の一つとして知られており、秀長の死にも毒が関与していた可能性は否定できません。
豊臣秀長の最期がヒ素中毒の症状と似ている
豊臣秀長を毒殺する動機としては、主に以下の3点が挙げられます。
1.豊臣家内の政敵による陰謀 : 豊臣政権家における秀長の影響力を恐れた大名や豊臣家臣による毒殺の可能性
2.徳川家康の関与 : 豊臣家を弱体化に追い込むための布石のため
3.大和僧侶の企て : 大和の僧たちが秀長に反感を抱き毒殺した説


徳川家康の関与はあり得るのでは?
豊臣秀長が亡くなった2日後に、徳川家康は千利休と密会したと言われております。そして、その後の1ヶ月後に千利休は秀吉によって切腹を命じられて亡くなりました。
年月 | 出来事 |
---|---|
1591年1月22日 | 豊臣秀長が亡くなる。 |
1591年1月24日 | 千利休と徳川家康が密会? |
1591年2月28日 | 千利休が秀吉の命により切腹する。 |
これは秀長の死に、何らかの政治的な陰謀が関わっていたと考えてもおかしくありません。
粛清説
豊臣秀長は、兄・豊臣秀吉によって粛清されたという説があります。
秀吉には待望の第一子・鶴松が誕生しており、弟・秀長やその養子が豊臣家の後継の座に就くことを警戒したため、秀長を排除したのではないかという見方です。
実際、秀吉の甥である豊臣秀次も、のちに豊臣秀頼の誕生によって立場が危うくなり、粛清されたとされています。そうした経緯を踏まえると、秀長の死にも類似した政治的背景があった可能性は否定できません。
さらに、1588年には、秀長の家臣・吉川平介が材木売買代金を着服する事件が発生し、秀長は秀吉から叱責を受けています。この一件により兄弟間の関係が悪化し、やがて粛清に至ったのではないかという説も存在します。


秀次切腹事件などを考慮すると
有り得そうな説ですね
豊臣秀長がもし生きていたら
「豊臣秀長がもし生きていたら」を詳しく考察しています↓


豊臣秀長がもし長生きしていたら
どうなっていたのでしょうか?
豊臣秀長は、兄・豊臣秀吉を支えた名補佐役であり、秀吉に対して諫言できる唯一の存在だったといわれています。そのため、もし秀長が長命であれば、朝鮮出兵を止められたのではないかと考える人も少なくありません。
また、秀長は豊臣家中の家臣同士の調整役としても高く信頼されており、その調整力によって政権内のバランスを保っていました。ゆえに、健在であれば、千利休の切腹や豊臣秀次の悲劇も回避できた可能性があり、豊臣家の結束を強めて徳川家康に滅ぼされることもなかったのではないかとも推測されます。
などなどを考えると、秀長が早くに亡くなってしまったことは非常に残念なことですね
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