
斎藤龍興は「豊臣兄弟!」にも登場する
斎藤道三の孫ですね

わしに楯突いた男じゃ
美濃(岐阜)から追い出してやったぞ

祖父・道三や父・義龍に比べて名は劣りますが
実は戦国武将らしい動きもしており、生存説もあります
斎藤龍興の年表
年 | 説明 |
---|---|
1547? | 斎藤義龍の子として生まれる。 |
1556 | 祖父・斎藤道三と父・義龍が長良川で激突。 斎藤道三が亡くなる。 |
1561 | 父・義龍が急死し、家督を継ぐ。 |
1561 | 織田信長が美濃へ侵攻する。(森部の戦い) |
1562 | 有力家臣・遠藤盛数が病死する。 |
1563 | 竹中半兵衛の活躍により織田信長を新加納の戦いで破る。 |
1564 | 竹中半兵衛の策で稲葉山城を追われる。 |
1565 | 信長の美濃攻略により次々と重臣を失う。 |
1566 | 武田信玄と同盟を結ぶも信長への抑止力とはならなかった。 |
1567 | 信長により居城の稲葉山城が陥落される。 長島に亡命する。 |
?? | 縁戚関係の朝倉義景のもとで客将となる。 |
1571 | 本願寺顕如から黄金と太刀が贈られる。 |
1573 | 朝倉軍が織田軍に敗れて追撃を受けた時に戦死する。 享年27? |
斎藤龍興の相関図


斎藤龍興は斎藤道三の孫
斎藤龍興(演 : 濱田龍臣)は1547年または1548年に生まれたとされ、父は斎藤義龍、祖父は斎藤道三です。母は浅井久政の娘ではないかと言われていますがよくわかっていません。


龍興が10歳のとき、父・義龍と祖父・道三の間で長良川の戦いが起こり、祖父・斎藤道三は討ち死にしました。その後、父・義龍も急死し、龍興はわずか14歳で斎藤家の家督を継ぐことになります。


織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を破った1年後に家督を継ぎました、、、


斎藤龍興は竹中半兵衛に追い出され
1561年、織田信長は龍興のいる美濃へ侵攻を開始し、森部の戦いが勃発しました。家督を継承したばかりの若年の龍興は多くの重臣を失いながらも、織田家を追い払っています。


森部の戦いでは、前田利家が猛将・足立六兵衛を討ち取り、信長から織田家への帰参を許されています
その翌1562年にも、郡上八幡城主・遠藤盛数が討ち取られ、ジリジリと龍興は追い詰めれていきました。1563年には、家臣の竹中半兵衛の活躍もあり、新加納の戦いでは勝利を収めています。
しかし、1564年には竹中半兵衛による稲葉山城乗っ取り事件が起こります。
斎藤龍興は一度織田信長に勝利したことで慢心し、酒に溺れて政務をおろそかにし、一部の側近だけを重用するようになっていました。その姿に失望した竹中半兵衛は、主君を諌めるためにわずかな手勢で稲葉山城を乗っ取り、龍興に反省を促したと伝えられています。


竹中半兵衛は龍興のお気に入りの側近・飛騨守に日頃からひどい仕打ち(小便をかける)をしていたようで、このときに討たれたようです


斎藤龍興は美濃から追放され、、、
竹中半兵衛は稲葉山城を龍興に返還しましたが、龍興には美濃を治める器量がなく、次第に家臣たちの信頼を失っていきました。武田信玄と同盟を結び反織田体制を築こうとするも失敗し、やがて多くの家臣が織田信長のもとへと離反し、その中には美濃三人衆(安藤守就・稲葉一鉄・氏家卜全)も名を連ねていました。


「豊臣兄弟!」の活躍は美濃攻めで墨俣一夜城を築いたあたりからですね
1567年、織田信長は稲葉山城まで攻め込み、斎藤龍興は城を抜け出し伊勢長島の方へ落ち延びました。このとき、20歳。二度と戦国大名として返り咲くことはありませんでした。
美濃を追われた龍興は摂津へ逃れ、三好三人衆や本願寺と手を結び、反信長勢力の一員として生き延びました。1569年には三好三人衆とともに、当時信長の支援を受けていた将軍・足利義昭を襲撃しています。このとき信長は京都の治安維持を明智光秀に任せており、その隙を突いて龍興が襲撃を仕掛けたと考えられています。
さらに翌1570年、本願寺と信長の10年戦争の初戦となる野田・福島城の戦いで、龍興は本願寺側を支援しています。




龍興は美濃から追放されて以降の方が信長を苦しめているような気がしますね


美濃から追放されたことで目がさめたのかもしれんの
斎藤龍興は朝倉義景を頼るも討ち取られる
三好三人衆が勢力を失うと、龍興は畿内に居場所をなくし、縁戚関係にあった越前(福井県)の朝倉義景を頼りました。斎藤家と朝倉家の具体的な関係は不明ですが、龍興は「客将」として迎えられ、待遇は悪くなかったと伝えられています。
しかし1573年、織田信長が本格的に朝倉討伐を開始すると、龍興もこれに巻き込まれ、戦いの中で討ち死にしました。享年26。


一説には、重臣だった氏家卜全の子・直昌は龍興を斬ったとも言われています


斎藤龍興の生存説
ちなみに、斎藤龍興には「生存説」が残されています。
戦死せずに家宝だけを携えて越中国新川(富山県)に逃れ、興国寺に身を寄せたと伝えられています。そこで名を「九右ェ門」と改め、周辺の原野を開拓して暮らしたといいます。
その後、1611年に興国寺で出家し、家督を子に譲ったのち、1632年に享年87歳で大往生を遂げたとも伝えられています。


わしのことを執拗に攻撃し続けたものが
急に開墾などするとは思えんが、、、


本能寺の変のときに出てきそうですよね、、、
誰かが斎藤龍興に生きていてほしいという願いから生まれた説でしょう


病気でなくなったという説もある。
斎藤龍興のまとめ
斎藤龍興は、家臣の竹中半兵衛に稲葉山城(岐阜城)を奪われ、さらに織田信長によって斎藤家を滅ぼされた武将として、しばしば低い評価を受けています。
しかし、美濃を追われた後も、諸大名と結んで信長に執拗な攻撃を仕掛けたり、本願寺に身を寄せて再起を図ったりと、意外にも粘り強い一面を持つ武将だったのかもしれません。


実際、美濃を明け渡したものの、信長相手に6年間も戦い続けたのはすごいですよね
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