
大河ドラマ・豊臣兄弟に登場する「宮部継潤」はドンペイさんが演じていますね
浅井長政の家臣ですね

浅井長政の家臣であったが
わしが調略したんじゃぞ

豊臣政権下で重用されて、豊臣秀次を養子としていたようですね
それでは宮部継潤の生涯をみてみましょう
↓豊臣兄弟キャストの相関図
宮部継潤の相関図
宮部継潤は浅野長政の家臣の出身だった
宮部継潤(演:ドンペイ)は近江国(滋賀県)に生まれました。父親は土肥真舜といわれており、荘園管理を担う一族の出身だったようです。
1536年、比叡山で修行を積んだ後、故郷に戻って宮部村の湯次神社に身を寄せました。このとき名を「継潤」と称したとされています。


地元の宮部村である程度力を持っている地主の子に生まれたのだと思います
その後、浅井長政(演:中島歩)に仕え、小谷城にほど近い宮部城を任されました。両城は直線距離でおよそ6kmほどに位置しており、浅井家中での継潤の立場がうかがえます。


宮部継潤は豊臣秀次を養子に迎える!
1570年、主君・浅井長政が織田信長(演:小栗旬)を裏切ったことで、両者の関係は決定的に悪化しました。
宮部城のすぐ近くにある横山城の城代を務めていた木下秀吉(豊臣秀吉, 演:池松壮亮)は、浅井攻略のために宮部城主・継潤への調略を開始します。


そして1571年、継潤は秀吉の誘いに応じてその与力となりました。
宮部城は小谷城攻めの重要拠点であったため、継潤は小谷城落城まで数多くの武功を挙げることになります。


小谷城からこんなに近い砦が寝返ったとなると
浅井もなすすべないですよね、、、
またこの時期、継潤は秀吉に人質として身内を差し出すように要求しました。
しかし、秀吉には実子がいなかったため、姉・とも日秀尼(演:宮澤エマ)の子である甥の万丸(豊臣秀次)を養子として継潤のもとへ送り出しました。


万丸はまだ4歳じゃったからのー
姉ちゃんには強く抵抗されたんじゃ
継潤の養子となった秀次は「宮部吉継」と称しており、秀吉の「吉」と継潤の「継」から一字ずつ偏諱を受けた名前です。
秀次を養子に迎えたことで継潤は秀吉派閥の中で重用されるようになり、長浜城主となった秀吉から3,000石の所領を与えられました。これは破格の待遇であり、秀吉が継潤の浅井から織田への転向を高く評価していたのではないかと考えられています。
なお、秀吉は長浜城主時代に浅井家臣や近江の土豪・地侍を数多く家臣に取り立てています。片桐且元・木村重茲・大野治長・石田三成・藤堂高虎・脇坂安治などがその代表格です。こうした面々をまとめ上げるうえで、浅井家の重臣クラスであった宮部継潤を厚遇することは、秀吉にとっても好都合だったのかもしれません。


秀吉の家臣には浅井旧臣が多かったため
淀殿があんなにも発言力があったという説もありますよね


宮部継潤は鳥取城を立て直した
秀吉の与力として中国攻めに従軍した継潤は、羽柴秀長(豊臣秀長, 演:仲野太賀)の軍に加わり但馬方面の攻略に当たりました。
1580年には但馬の山名氏など諸勢力を打ち破り、但馬国を平定。この功績により、但馬・豊岡城2万石の城主に取り立てられました。


1581年、鳥取城攻めが始まりました。継潤は但馬国から先鋒部隊の一員として鳥取城へ向けて出陣します。雁金山城を攻め落として補給路を遮断し、城を完全に包囲したうえで徹底した兵糧攻めを敢行しました。
鳥取城には兵だけでなく近隣住民も逃げ込んでいたため、兵糧はたちまち枯渇しました。城内の人々は牛馬や草木をはじめ、城壁や遺体にまで手をつけたとも伝わっており、その惨状はまさに地獄絵図であったと称されています。


鳥取城を開城させると、継潤はそのまま鳥取城の城代に任じられました。毛利攻めの最前線拠点を委ねられたことからも、秀吉の継潤への信任がいかに厚かったかがわかります。
城代となった継潤は内政にも力を注ぎ、城下の治安維持を図るとともに、領民の税負担の整理・軽減を推し進めました。さらに日本海に面した地の利を活かし、漁業を地域の主要産業として育てていきました。


宮部継潤は荒法師かと思っていたら実務能力も高い人物だったんですね
宮部継潤は豊臣秀吉に重用される
実は宮部継潤には、あまり知られていない重要な功績があります。
本能寺の変に際し、秀吉は毛利氏との講和を素早くまとめ、中国大返しによって京へ取って返し、山崎の戦いで明智光秀(演:要潤)を討ちました。
この電撃的な行動を支えた陰の立役者こそ、継潤でした。
継潤は鳥取城に留まって毛利方の動向を監視し、秀吉本軍の背後を守り続けたのです。仮に毛利方が追撃に転じた場合には、継潤がこれを迎え撃つ手はずだったと考えられています。


1585年の佐々成政攻め、1587年の九州征伐、1590年の小田原征伐に相次いで出陣し武功を挙げた継潤は、因幡・但馬5万石を賜りました。
1596年、高齢を理由に隠居した後も秀吉からの信任は厚く、御伽衆として秀吉の話し相手を務めました。そして秀吉の死去から1年後の1599年、72歳でその生涯を閉じました。


宮部継潤の7日後に前田利家も亡くなったので
豊臣政権終焉の象徴といえますね
宮部継潤の年表
| 年 | 説明 |
|---|---|
| 1528 | 土肥真舜の子として誕生する。 |
| 1538 | 比叡山に登って修行する。 |
| ?? | 浅井長政に仕える。 |
| 1570 | 姉川の戦い。 |
| 1571 | 木下秀吉(豊臣秀吉)の調略を受けて織田に寝返る。 万丸(秀次)を人質として養子に迎い入れる。 |
| 1573 | 浅井の本拠地・小谷城を落城させる。 |
| 1577 | 羽柴秀長に従って但馬攻略に貢献する。 |
| 1581 | 鳥取城を落城させ、城代となる。 |
| 1582 | 本能寺の変。 |
| 1585 | 佐々成政攻め。 |
| 1587 | 九州征伐。 |
| 1589 | 因幡・但馬5万石。 |
| 1590 | 小田原征伐。 家督を子の長房に譲る。 |
| 1592 | 文禄の役。肥前名護屋城に在陣。 |
| 1594 | 伏見城の普請に参加。 |
| 1596 | 隠居。秀吉の御伽衆となる。 |
| 1598 | 豊臣秀吉が亡くなる。 |
| 1599 | 72歳で亡くなる。 |











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