
浅井長政は大河ドラマ・豊臣兄弟にも登場する人物ですね

信長様のことを裏切りおって
許せんのー

なぜ浅井長政は織田信長を裏切ったのでしょうか?
浅井長政の年表
年 | 説明 |
---|---|
1545 | 浅井久政の嫡男として誕生。 幼名「猿夜叉丸」。 |
1559 | 六角義賢から「賢」を与えられ、「賢政」と名乗り元服。 六角氏家臣・平井定武の娘を娶る。 |
1560 | 六角軍相手に初陣を飾る。 |
1561 | 祖父・亮政から「備前守」を受け継ぎ、「長政」と改名。 |
1563 | 六角氏が弱体化し、近江の支配を強める。 |
?? | お市の方と結婚し、織田信長と同盟を結ぶ。 |
1568 | 足利義昭を小谷城でもてなす。 |
1570 | 朝倉征伐時に裏切り、信長を追い詰める。 |
1570 | 姉川の戦い。 浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が激突する。 |
1571 | 浅井氏と協力関係にあった比叡山が焼き討ちにされる。 |
1573 | 織田信長が浅井・朝倉征伐を本格化し、自害する。 享年29。 |


お市の方と結婚した時期が諸説ありよくわかっていません
こんなにも有名な同盟なのに、、、
浅井長政の相関図




戦国の転職王・藤堂高虎の最初の主君は浅井長政です
浅井長政は観音寺城で誕生
浅井長政は1545年、浅井久政の長男として生まれました。幼名は「猿夜叉」です。 当時、浅井家は近江(滋賀県)を支配していた六角氏に臣従しており、母・小野殿は六角氏の居城・観音寺城で人質として暮らしていました。そのため、長政もこの観音寺城で誕生したと考えられています。


観音寺城は「瓶割り柴田」の逸話が残る城ですね


1559年、浅井長政は元服し、「賢政」と名乗りました。これは、六角当主・六角義賢の「賢」の字を偏諱されています。さらに、最初の妻も六角氏家臣・平井定武の娘です。


偏諱は主従関係の現れですね
浅井氏は独立した大名というより、六角氏の家臣に近いですね


浅井長政は六角と手切れ
1559年、浅井長政は妻と離縁して実家に送り返し、六角氏との「手切れ」を表明しました。六角派であった父・浅井久政を追放し、浅井家の家督をわずか16歳で継承しました。


この頃から、「長政」と名乗るようになったようです
1560年、六角義賢は浅井方へ寝返った高野瀬秀隆の居城を攻撃しました。これに対し、浅井長政も兵を挙げ、浅井軍と六角軍の間で「野良田の戦い」が勃発します。
兵力では浅井軍が劣勢でしたが、果敢に斬り込んで奮戦した結果、浅井軍が勝利しました。この勝利によって、浅井長政は北近江における支配権を確立しました。


浅井と六角の戦いの始まりじゃな
野良田の戦い以降、六角氏では当主・六角義賢と嫡男・六角義治の関係が悪化しました。さらに、義治の婚姻問題をめぐっても対立が生じ、1563年には義治が重臣・後藤賢豊を暗殺するという暴挙に出ます。これにより家中の不満は一気に高まり、多くの家臣が他家へ出奔したり、浅井家に鞍替えしたりしました。その結果、浅井家の地位はさらに高まることとなりました。


これは、「観音寺騒動」と言われる事件ですね
浅井長政はお市の方を娶る
織田信長が美濃を平定した後、浅井長政は信長の妹・お市の方を娶ったと言われています。当時、長政は23歳、お市は18歳前後とされ、当時としてはやや遅い婚姻年齢であったことから、お市は再婚だったのではないかとも言われています。
この婚姻によって浅井家と織田家の間に同盟が結ばれ、長政は近江での支配を一層強固なものとし、信長にとっては上洛への足がかりを得る形となりました。
また、信長はこの同盟を非常に喜び、通常は婿側が負担する婚礼費用をすべて自ら負担したと伝えられています。これは、長政が無茶振りをのんでくれたことへのお礼だったのかもしれません。


長政の「長」は信長から偏諱されたとよく思われますが
実際には家督を譲られた頃から、「長政」と名乗っていたようです
義兄弟となった長政と信長は協力しあい、1568年には足利義昭が朝倉から織田のもとへ向かう際、長政は本拠地・小谷城でもてなしています。さらに、信長が義昭を奉じて上洛する際も、長政は参戦しています。
この上洛のときに信長は功績のあった池田勝正や和田惟政、松永久秀などには報酬を与えたにも関わらず、長政には恩賞がなかったようで、後に長政が信長を裏切る要因1つになったとも言われています。


他にも信長は同盟者としてではなく、家来として長政を扱ったことも要因としてあるようです
浅井長政はなぜ織田信長を裏切ってしまったのか
1570年、織田信長は諸大名に対し、「皇居や将軍の御用を片付けるために上洛するから協力するように」と要請しました。
しかし、信長が上洛を果たした当時でさえ、京都の人々の多くはまだ信長の名を知らなかったほどであり、このような要請に応じない大名がいても不思議ではありません。結果として、越前(福井県)の朝倉義景はこの要請を無視し、信長はそれを口実として朝倉領への侵攻を開始しました。
長政にとっては、一大事。織田も朝倉も同盟関係があり、古くから関係があるのは朝倉、妻の実家は織田です。長政は古くから関係のある朝倉を取り、織田との同盟を破棄して、織田軍を金ケ崎で追撃しました。


長政の嫡男・万福丸は朝倉へ人質に出されていたと言われています
長政が裏切った際、信長は裏切りを一切信じなかったようです。
信長はすでに天皇や皇族に出陣の挨拶を済ませ、幕府からの後ろ盾も得ていました。つまり、当時の信長は日本の最高権威を味方につけたうえで朝倉攻めを開始しており、長政に裏切る理由などないと考えていたのです。


信長は朝廷や幕府の威光を利用するのが上手ですよね
しかし、長政の裏切りによって信長は予想外の窮地に追い込まれます。そんな中、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が殿(軍の最後尾)を務めたことで、織田軍は辛くも退却に成功しました。
その後、浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍の間で「姉川の戦い」が勃発しました。激戦の末、長政は信長に敗北を喫します。なお、この戦いには藤堂高虎も浅井軍の足軽として参戦しており、織田軍に対して武功を挙げたと伝えられています。
姉川の戦いの後、長政は将軍・足利義昭の要請を受け、三好三人衆や本願寺顕如と連携して反信長の姿勢を明確にしました。これが、いわゆる「信長包囲網」の始まりです。


長政と信長との争いの中で、比叡山延暦寺が焼き討ちにあいました


浅井家の滅亡
武田信玄の急死により、信長包囲網は一気に勢力を失いました。これを機に、信長は浅井・朝倉両家への侵攻を開始します。信長は3万の軍勢を率いて浅井領へ攻め入り、次々と浅井方の城を陥落させていきました。そのため、浅井家中でも寝返りが相次ぎます。
当初、朝倉義景は援軍を送っていましたが、情勢の悪化を受けてこれ以上の救援は不可能と判断し、撤退しました。追い詰められた長政は小谷城に籠城します。
やがて、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が降伏を勧めましたが、長政はこれを固辞。交渉は決裂し、最終的に父・浅井久政とともに自害して果て、ここに近江浅井氏は滅亡しました。


戦国大名の浅井家は滅亡しましたが、浅井の血は徳川家や天皇家に続いていくことになります


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