
織田信長にはたくさん嫁がいたようですね

わしには12人の妻がいたぞ
子を産むには必要なんじゃ

今回は織田信長の妻について調査していきましょう
織田信長の嫁一覧はこちら
織田信長の側室 | 特徴 | 子ども |
---|---|---|
濃姫・帰蝶 | 正室 | |
生駒吉乃 | 信長最愛の妻 | 信忠、信雄、徳姫 |
坂氏の娘 | 信孝 | |
お鍋の方 | 秀吉により磔刑 | 信高、信吉、於振 |
慈徳院 | 豊臣政権下で奥向の有力者 | 三の丸殿 |
養観院 | 滝川一益の一族 | 秀勝、冬姫 |
土方氏 | 信貞 | |
春誉妙澄大姉 | 前田家の庇護下で生活 | 永姫 |
稲葉氏 | 信勝 | |
あここの方 | 公家出身の女性 | |
明鏡院 | 信正? | |
御ツマキの方 | 明智光秀の妹 |
織田信長の正室
実は、濃姫は信長が最初の夫ではなかったともいわれています。濃姫はかつて、美濃(岐阜県)の守護である土岐氏の一族、土岐八郎頼香に嫁いだとされます。しかし、父・斎藤道三との対立により、頼香は自害に追い込まれ、濃姫はほどなく未亡人となりました。
その後、再び土岐氏の人物に嫁いだとも伝えられていますが、この夫も道三によって暗殺されたとされ、濃姫の結婚生活は波乱に満ちたものでした。


濃姫は15歳にしてバツ2で
織田信長は3人目の夫だったのですね
濃姫は斎藤家と織田家の同盟のために、織田信長に嫁ぎました。
しかし、濃姫が信長に嫁いだあとの詳しい記録は残されておらず、その後の動向については不明です。本能寺の変では濃姫とされる人物が登場する説もありますが、実際のところは明らかになっていません。


織田信長の側室
生駒吉乃
織田信長が最も寵愛した生駒吉乃。
生駒吉乃は、織田信長と結ばれる前、美濃の武士・土田弥平次に嫁いでいました。しかし、夫は長良川の戦いで討ち死にしたため、吉乃は実家に戻ることになりました。
その後、織田信長が生駒家を訪れた際、吉乃を見初めて側室に迎えたと伝えられています。


信長も一目惚れするんですね
織田信長は生駒吉乃のことを愛しており、長男・織田信忠、次男・織田信雄、長女・徳姫を出産しています。しかし、産後の肥立ちが悪く亡くなってしまいました。


生駒吉乃は正室のような扱いを受けていて
家臣にも「妻」と披露しているようです
坂氏の娘
伊勢国の豪族・坂氏の娘と伝えられています。ただし、確かな出自については記録が残っておらず、詳細は不明です。
坂氏は織田信長との間に三男・信孝をもうけましたが、身分が低かったため出生の報告が遅れ、結果として信孝は三男とされました。一方で、信孝より20日後に生まれた信雄が次男と扱われることになりました。


生駒吉乃の身分や信長からの寵愛と比べると
坂氏の娘はそれほどでもなかったんでしょうね
本能寺の変後、息子の織田信孝が柴田勝家と結んで豊臣秀吉と敵対したため、1583年に、信孝の娘とともに磔の刑に処されました。


秀吉はわしの妻を磔にしておったのか!!
お鍋の方
お鍋の方・興雲院は、近江(滋賀県)の土豪・高畑源十郎の娘です。もともとは六角氏の家臣・小倉実房に嫁ぎ、二人の男子(小倉甚五郎・小倉松寿)をもうけました。
しかし、夫の実房が敵対していた織田信長と内通したため、主君である六角氏によって処刑され、お鍋の方は未亡人となりました。
その後、お鍋の方は岐阜の信長のもとに身を寄せ、側室となります。信長との間には、七男・織田信高、八男・織田信吉、そして娘の於振(おふり)を出産しました。


フィギアスケートの織田信成さんは
織田信高の子孫とも言われています
信長の死後、お鍋の方は豊臣秀吉の庇護を受け、化粧料として近江国に500石の所領を与えられました。
その後、秀吉の正室・ねね(北政所)に仕え、側近の筆頭として奥向きで大きな影響力を持っていたといわれています。
しかし、関ヶ原の戦いで息子の織田信吉が西軍に加担して改易されたため、お鍋の方も500石の所領を没収されてしまいました。生活が困窮する中、淀殿(茶々)や北政所から援助を受け、晩年は京都で静かに暮らしたと伝えられています。


お鍋は秀吉からは丁重に扱われていたようじゃな
慈徳院
滝川一益の一族の出身と伝わる女性で、織田信長の長男・信忠の乳母を務めていました。その縁で信長の側室となり、「三の丸殿」と呼ばれる娘を出産しました。
本能寺の変で信忠が討たれた後、慈徳院は京都の妙心寺内に塔頭・大雲院を建立し、その菩提を弔いました。


慈徳院に関する資料はあまり残っておらず
詳細は不明です


養観院
養観院は出自が不明で、生没年もはっきりしていません。
養観院は織田信長の側室となり、四男・羽柴秀勝と娘・冬姫を出産しました。秀勝は後に、信長の家臣であった豊臣秀吉の養子となり、冬姫は蒲生氏郷の正室となっています。


ねね(北政所)が実子がいないため
秀勝を養子にすることを望んだみたいだよ
秀勝が若くして病死したのち、出家して「養観院」と号し、京都で余生を送りました。
土方氏
土方氏は、美濃衆の一人・土方雄久の娘です。土方雄久は、織田信長・信雄の二代に仕え、のちに豊臣秀吉にも仕えた人物として知られています。
土方氏は信長の側室となり、九男・織田信貞をもうけました。
しかし、それ以上の記録は残されておらず、土方氏の詳細については不明です。


織田信貞は江戸時代には高家として存続しました
春誉妙澄大姉(しゅんよ みょうちょう だいし)
春誉妙澄大姉は、戒名のみが伝わっており、実名や出自については明らかになっていない人物です。織田信長との間に、永姫(ながひめ、または えいひめ)をもうけたとされています。
永姫は、前田利家の長男・前田利長の正室となったため、本能寺の変の後は、母とともに前田家に身を寄せて暮らしていたと考えられます。
稲葉氏
美濃の稲葉氏の出身とされる女性で、実名や詳しい出自は不明です。織田信長との間に、六男・織田信秀をもうけました。
しかし、それ以外の記録は残されておらず、詳細は明らかになっていません。


息子の織田信秀はキリスト教に改宗しています
あここの方
あここの方は、公家の三条西実枝の娘です。父・三条西実枝は1577年に大納言に昇進しており、信長の推挙があったのではないかと言われています。
あここの方に関する記録は、宮中の日記など限られた史料にしか残っておらず、織田信長との間に子をもうけたという記録もありません。


信長は朝廷との関係を築くために
側室にしたんでしょうね


明鏡院
明鏡院は、織田信長の家臣・塙直政の妹と伝えられていますが、実名は明らかになっていません。
信長との間に、長男・信忠が生まれる以前に織田信正をもうけたという説もあります。ただし、信正の存在自体に関しては不明な点が多く、幼くして夭折したともいわれています。明鏡院自身についても、その後の消息は不明です。


塙直政は信長に重用された武将でしたが
石山合戦で討ち死にしました
御ツマキの方
御ツマキの方は、明智光秀の妹と言われる女性です。
信長との間に子は生まれず、政治的な動きをしていたようです。1577年には、興福寺と東大寺の仲裁をし、織田家に働きかける役割を兄の明智光秀とともにしています。
1581年頃、「惟任の妹の御ツマキ」が病死した際には、信長ひどく嘆いたようです。
御ツマキの方は信長に寵愛された側室であり、その死が翌年の本能寺の変の遠因になった可能性があります。


御ツマキの方は特異な存在ですね
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