大河ドラマ「豊臣兄弟!」に登場する佐々成政。
佐々成政は織田信長の黒母衣衆から富山城城主へと出世しましたが、信長の死後は豊臣秀吉と対立し、最期は切腹を命じられた武将です。
この記事では、佐々成政の生涯、豊臣秀吉との関係、さらさら越え、子孫について紹介します。
佐々成政の年表
| 年 | 説明 |
|---|---|
| 1536 | 佐々成宗の三男として誕生する。 |
| 1560 | 佐々家の家督を相続する。 |
| 1561 | 織田信長の美濃攻めに従軍する。 |
| 1567 | 信長親衛隊の「黒母衣衆」となる。 |
| 1580 | 越中を平定する。 |
| 1582 | 富山城の城主となる。 |
| 1583 | 賤ヶ岳の戦いに敗れる。 |
| 1584 | 小牧長久手の戦い。 さらさら越え。 |
| 1585 | 秀吉の富山攻めを受けて降伏する。 秀吉の御伽衆まで降格する。 |
| 1587 | 九州征伐で功績を挙げ、「肥後」の領主となる。 |
| 1588 | 一揆を抑え込めず切腹となる。 |
佐々成政は織田信長の黒母衣衆
佐々成政(演:白洲迅)は1536年、尾張国で生まれました。父は比良城主の佐々成宗で、成政は三男とされています。長兄と次兄が稲生の戦い、桶狭間の戦いで討ち死にしたため、成政が「佐々家」の家督を継ぎ、比良城の城主となりました。
成政は織田信長(演:小栗旬)に仕え、信長直属の精鋭部隊「黒母衣衆」の筆頭に抜擢されました。
1575年の長篠の戦いでは、前田利家(演:大東駿介)らと鉄砲隊を指揮。その後は利家、不破光治とともに「府中三人衆」となり、柴田勝家(演:山口馬木也)のもとで北陸支配を進めました。
1581年頃には越中半国を任され、富山城を大規模に改築し、富山城を拠点に上杉勢と戦いました。


前田利家、豊臣秀吉と対立
1582年、本能寺の変で織田信長が横死すると、成政の運命も大きく揺れ動きます。信長という絶対的な支柱を失った織田家では、後継者争いが勃発。
成政は、織田家の筆頭家老であった柴田勝家に与しました。
これにより、同じく信長の後継者の座を狙う羽柴秀吉(豊臣秀吉, 演:池松壮亮)と明確に対立する立場となります。
1583年の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が秀吉に敗れ、自害すると、成政は一旦秀吉に降伏し、越中一国の所領は安堵されました。
しかし、これはあくまで一時的なもので、成政の胸中には秀吉への不信感が渦巻いていたことでしょう。
1584年、織田信長の次男・織田信雄(演:山脇辰哉)と徳川家康(演:松下洸平)が反秀吉を掲げて挙兵すると、成政もこれに呼応し、再び秀吉に反旗を翻します。成政は前田利家の城である末森城へ攻め込みましたが、金沢城から急行した前田利家本隊に背後を急襲され、敗北を喫しました。
本線の小牧長久手の戦いは、戦局が膠着し、信雄と家康が秀吉と和睦を結んでしまうと、成政は越中で孤立することになりました。


↓小牧長久手の戦いの原因となった人
さらさら越えで徳川家康を訪ねる
追い詰められた佐々成政は、再び家康を反秀吉の戦いに引き込もうと、「さらさら越え」を決行しました。
これは、1584年の厳冬期、成政が家臣数名だけを連れ、日本アルプスの険しい山々、特に立山連峰のザラ峠や針ノ木峠を越えて、浜松の徳川家康のもとへ向かったという壮絶な雪中行軍の伝説です。


「さらさら」とは、雪が衣服に触れる音とも、あるいはザラ峠の「ザラ」が転じたものとも言われています。
当時の装備で、標高2500メートル級の冬山を越えるのは、まさに命がけの行為。このエピソードは、成政の並外れた行動力と執念を象徴するものされてきました。
しかし、この「さらさら越え」については、史実としての確証はありません。成政が冬に信濃を経由して家康に会いに行った記録はありますが、具体的なルートが立山連峰であったかは不明です。
近年の研究では、比較的標高の低い飛騨ルートを通ったのではないか、という説も有力視されています。


いずれにせよ、敵中を突破し、厳寒期に長距離を移動してまで家康に再挙を促そうとした成政の行動は、彼の秀吉への強い対抗意識と、状況を打開しようとする必死の思いの表れと言えるでしょう。
残念ながら、家康を説得することはできず、この命がけの行為は無に帰しました。


さらに北には上杉景勝もいたので
佐々成政は周囲から非情に孤立していました
秀吉に降伏後、肥後で切腹
さらさら越え後、秀吉が大軍を率いて越中へ進むと、成政は剃髪して降伏しました。
織田信雄の説得もあり処刑は免れましたが、所領の越中は没収され、秀吉の御伽衆に加えられました。


御伽衆は相談役や話し相手を務める役職のことですね
1587年、秀吉による九州征伐が行われました。佐々成政は、戦後に肥後の領主与えられました。しかし入国直後に検地を進めたことで国衆が反発し、肥後国衆一揆が勃発。
通説では、秀吉から検地を急がないよう命じられていた成政の失策とされます。ただ、肥後を支配してきた力の強い国衆と、全国統一を進める豊臣政権の対立も一揆の大きな要因の1つでした。
一揆の責任を問われた成政は、1588年、尼崎で切腹。肥後入国からわずか1年で最期を迎えました。
また、佐々成政の最期は非情に壮絶だったと伝えられています。
切腹の際、短刀を腹に突き刺し、横一文字にかき切った後、自らの内臓を掴み出して天井に投げつけたというのです。
これが事実であれば、成政の無念さや怒り、武人としての意地がどれほどのものであったか想像に難くありません。
辞世の句は、「このごろの厄妄想を入れ置きし鉄鉢袋今破るなり」とされています。
「最近の災難や悪い考えを詰め込んでいた、この鉄の鉢のような自分の腹を、今こそ破り捨てるのだ」といった意味でしょうか。
ここにも、成政の無念や、世の無常を感じさせる響きがあります。


秀長の動向はわかっていませんが
豊臣兄弟ではどのような立ち回りがみられるのか楽しみです
佐々成政の子孫は?
系図によると、佐々成政の正室は織田家臣・村井貞勝の娘「慈光院」とされます。
長男の松千代丸は1574年の長島一向一揆で戦死したと系図に記されますが、同時代史料では実在を確認できません。


娘には随泉院、輝子、光秀院、松寿院らがおり、輝子は佐々清蔵の妻を経て鷹司信房の後室となっています。ほかの娘も松原五郎兵衛、織田信高、神保氏興、山岡景以、狩野孝信らに嫁いだと伝わります。
嫡男がいなかっため、佐久間勝之らを養子に迎えましたが家督は継承されず、直系男系は断絶しました。
ただし娘を通じた女系子孫は存在します。徳川光圀(水戸黄門)に仕えた佐々宗淳や元内閣安全保障室長の佐々淳行は、成政の実姉につながる傍流の子孫とされます。


秀吉のもとに人質として送った娘の一人は
京都で磔にされたようです、、、
まとめ
佐々成政は、織田信長の黒母衣衆から越中の大名へ出世した武将です。
本能寺の変後は羽柴秀吉と対立し、前田利家に敗北。さらさら越えで徳川家康に協力を求めましたが、最後は肥後国衆一揆の責任を問われて切腹しました。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、白洲迅さんが血気盛んな成政を演じます。信長に認められた成政が、秀吉・秀長兄弟の台頭によって立場を失っていく姿に注目です。
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