
5月31日放送の「風雲!竹田城」では、小一郎が但馬の竹田城攻めを任され、初めて総大将として戦に臨みますね

その竹田城を代々守っておったのが、太田垣輝延という男じゃ
「天空の城」として有名な城じゃ

それでは太田垣輝延とは何者なのか、その生涯をみてみましょう!
太田垣輝延の年表
| 年 | 説明 |
|---|---|
| 1538 | 但馬国養父郡大屋荘に誕生。 |
| 1556 | 父・朝延が守護の山名祐豊から生野銀山の領有権を奪う。 |
| 1569 | 豊臣秀吉の第一次但馬侵攻。 竹田城も一時落城。織田に服属。 |
| 1570 | 家督を相続し、第7代竹田城主となる。 |
| 1575 | 「芸但和睦」が成立し毛利方に帰属。 丹波の赤井直正に竹田城を奪われる。 |
| 1576 | 荻野直正から竹田城を奪還する。 |
| 1577 | 豊臣秀長の但馬攻め。 竹田城落城し、秀長が城代となる。 |
| 1579 | 秀長の不在をついて竹田城を奪還し、再び入城する。 |
| 1580 | 織田軍が再び侵攻。 竹田城落城し、播磨へ逃亡。 |
| ?? | 播磨逃亡後は不明。 |
太田垣輝延は山名四天王の竹田城主だった
太田垣輝延は、1538年に但馬国養父郡大屋荘(兵庫県)で生まれたと伝えられています。父は竹田城主の太田垣朝延です。


「輝延」の「輝」の字は、13代将軍足利義輝からの偏諱という説もあります
太田垣氏は、但馬の古い名族である日下部氏の一族とされています。初代の太田垣光景が、1441年の嘉吉の乱で山名氏に従って赤松氏討伐に功を挙げ、1443年に守護・山名宗全から竹田城の守備を命じられたのが始まりとされていますね。
その竹田城は、播磨と但馬の国境にそびえる標高約354mの山城です。いまでは雲海に浮かぶ「天空の城」「日本のマチュピチュ」として全国的に有名です。


そして太田垣氏は、垣屋氏・八木氏・田結庄氏とともに「山名四天王」と呼ばれた、山名家中でも屈指の有力国人でした。
太田垣輝延は1570年に家督を継ぎ、第7代竹田城主となりました。


太田垣氏は光景から輝延まで7代にわたって竹田城主を務めたんですね
太田垣輝延は織田と毛利の狭間で揺れ動いた
太田垣輝延が竹田城主となった頃、但馬(兵庫県北部)の情勢はとても複雑でした。
主君の山名祐豊は但馬守護でしたが、その力はすでに衰えており、太田垣氏ら国人衆は半ば独立した領主のようになっていました。輝延の父・朝延の時代には、生野銀山の領有権を主君の山名氏から奪い取っていたほどでした。


生野銀山は莫大な富を生み出すからの
小一郎に竹田城攻めをさせたのはこのためじゃ


1569年、織田信長は豊臣秀吉に但馬侵攻を命じます。秀吉軍はわずか10日間で18城も落とし、竹田城も一度は織田方の手に落ちたと考えられています。
ところが1573年に信長と将軍・足利義昭(演:尾上右近)が決裂すると、義昭を保護した毛利氏と織田氏の対立が決定的になりました。そして1575年、毛利の吉川元春の工作によって、輝延を含む但馬の国人衆の多くが毛利方につく「芸但和睦」が成立。こうして輝延は、織田から離反して毛利方の最前線に立つことになりました。


但馬も播磨も国衆たちは織田か毛利のどちらに従うか迷っていたんでしょうね
太田垣輝延は一度失った竹田城を奪還


太田垣輝延は流されるだけの武将じゃなかったんです
毛利方についた直後の1575年10月、丹波黒井城主で「丹波の赤鬼」と恐れられた赤井直正が、突如として竹田城を急襲して占拠しました。
しかし太田垣輝延は、翌年には見事竹田城の奪還に成功したと記録されています。
そして1577年、今度は羽柴秀長(演:仲野太賀)の但馬攻めによって竹田城は再び落城し、秀長が城代となります。ところが1579年、秀長が信長の命で丹波へ出陣して城を離れた隙をついて、輝延はまたしても竹田城を取り戻すのでした。


輝延はかなり粘り強い武将ですね
太田垣輝延は羽柴秀長に敗れて没落
しかし、織田の力は圧倒的でした。
1580年4月、羽柴軍は但馬の完全平定をめざして大軍で侵攻します。但馬の毛利方国人衆は次々と降伏し、竹田城も有子山城とともに、ほとんど抵抗できないまま落城しました。
これにより、約140年続いた太田垣氏による竹田城支配は完全に終わり、輝延は城主の座を追われて隣国の播磨へと逃れたとされています。


竹田城に秀長の配下・桑山重晴を城主として置いたんじゃ


太田垣輝延の子孫は?
竹田城の落城後の輝延の消息は不明ですが、その血脈は意外な形で後世に伝わっています。
嫡子とされる太田垣新兵衛は、父とともに竹田城を脱出した後、但馬国養父郡の白岩に落ち延びたと伝わります。新兵衛は織田方の追っ手を逃れるため、太田垣の姓を隠して土地の名から「白岩」と名乗ったとされ、これが「白岩太田垣氏」の始まりと考えられています。
その後、太田垣氏の系統からは文化人も生まれています。
幕末から明治にかけて活躍した尼僧で、歌人・陶芸家としても名高い大田垣蓮月は、養父が因幡出身の太田垣氏の系統だったとされています。
武力で名を残せなかった一族が、文化や教育の分野で後世に名を刻んだというのは、なんだか感慨深いですね。
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