
大河ドラマ・豊臣兄弟に登場する「津田信澄」は信長の甥で明智光秀の娘壻ですね

信長様のすぐ下の弟の信勝様の嫡男じゃ
信長様にも目をかけられていたんじゃよ

それでは津田信澄の生涯をみてみましょう
↓豊臣兄弟キャストの相関図
津田信澄の年表
| 年 | 説明 |
|---|---|
| 1555? | 織田信勝の三男として誕生する。 |
| 1556 | 父・織田信勝が謀反を起こし織田信長に敗れる。 |
| 1558 | 父・織田信勝は織田信長により暗殺される。 津田信澄は柴田勝家のもとで養育される。 |
| 1564 | 元服して津田七兵衛信澄を称する。 |
| 1571 | 磯野員昌の養子となる。 |
| 1575 | 越前一向一揆征伐に出陣する。(初陣) |
| 1576 | 養父・磯野員昌が織田家を出奔する。 磯野の旧領・高島を所領とする。 |
| 1578? | 津田姓を名乗る。 |
| ?? | 明智光秀の娘と結婚する。 |
| 1581 | 京都馬揃えに参加する。5番目に名前が挙がる。 |
| 1582 | 本能寺の変が起こる。 明智光秀の共謀したと疑われ討たれる。 |
津田信澄は織田信勝の嫡男
津田信澄(演:緒形 敦)は、1555-1558年頃に織田信長(演:小栗旬)の実弟・織田信勝(演:中沢元紀)の嫡男として誕生しました。織田信秀の死後、信長と信勝の対立は次第に表面化していきます。1556年、父・信勝は信長に対して謀反を起こしましたが、敗北しました。一度は信長によって赦免されたものの、1558年に再び謀反を企てたため、信勝は信長の命によって殺害されました。


「豊臣兄弟」でも二度目の謀反の様子が描かれていましたね
しかし、信澄、弟の信糺、信兼は助命され、信長の命により柴田勝家(演:山口馬木也)のもとで養育されました。
このとき信澄は、まだ物心がついたばかりの幼子でした。武家の家督争いが激化した場合、後の禍根を断つために一族が皆殺しにされることも珍しくありません。そのような状況の中で、信長は信澄らを助命し、自らの庇護下で育て上げたのです。その理由はいくつか考えられます。


信長は、ときに身内や家臣に対して寛大な措置を取ることがありました。例えば松永久秀(演:竹中直人)は、信長に二度反旗を翻したにもかかわらず赦されています(最終的には三度目の反逆により討たれました)。
また、信長と信勝の母である土田御前による助命嘆願があった可能性も指摘されています。
さらに、尾張で急速に勢力を拡大していた織田家にとって、弾正忠家の血を引く一族は貴重な存在でした。血縁者を失うことは、家中の結束や将来の統治に影響を及ぼしかねません。信澄は、信忠(演:小関裕太)・信雄・信孝(演:結木滉星)ら信長の子らと同世代であり、将来は彼らを支える一門衆としての役割を期待されていたと考えられます。そのため、信長は信澄らを赦免し、養育させたのでしょう。


豊臣兄弟から考察すると、信長は裏切った信勝を生かしてはおけないけど、愛する弟の甥・信澄を大切に養育したのかもしれませんね
津田信澄は織田一門衆
津田信澄とその弟たちは、大きな問題を起こすことなく成長し、特筆すべき逸話がほとんど残されていません。これは、一門衆として安定した立場を築いていたことを示しているともいえます。元服後は信長主催の茶会に参列し、蘭奢待の切り取りの際には奉行の一員を務めました。
1571年には浅井旧臣である磯野員昌の養子となり、1575年には員昌とともに越前一向一揆の制圧に出陣しています。その後も丹羽長秀や柴田勝家らと行動をともにし、各地の戦いに従軍して武功を挙げました。


織田信長は磯野員昌に対し、知行地である高島を津田信澄に譲るよう命じました。これに反発した員昌は高野山へ出奔し、その結果、信澄が高島に入ることとなります。さらに明智光秀の後援を受けて大溝城主となり、のちに光秀の娘を娶りました。


大溝城は安土城を守るために琵琶湖周りに築かれた城の1つですね
他には坂本城や長浜城があります
このように信澄は信長から重用されており、織田弾正忠家の血を引く貴重な一門衆として位置づけられていたと考えられます。1581年に行われた京都御馬揃えにおいても、一門衆の中で5番目という上位の序列に列しており、その信任の厚さがうかがえます。
①長男・織田信忠
②次男・織田信雄
③弟・織田信包
④三男・織田信孝
⑤甥・津田信澄


津田信澄の運命を狂わせた本能寺の変


信長に目をかけられて順風満帆な信澄にどのような運命が待っていたのでしょうか
織田家と長宗我部家の関係が決裂すると、津田信澄は従兄弟の織田信孝に従い、四国攻めの副将となり大坂・住吉において、渡海の準備を進めていました。また同時期には、信長の命により、京都から堺へ向かう徳川家康(演:松下洸平)の接待役を丹羽長秀(演:池田鉄洋)とともに務めています。
しかし、その最中に本能寺の変が勃発しました。
織田信長と嫡男・信忠は明智光秀(演:要潤)の謀反によって討たれ、四国征伐軍も急遽中止となりました。信澄は光秀の娘婿であったことから謀反への関与を疑われ、織田信孝と丹羽長秀の軍勢に攻められます。
そして大坂・堺において討ち取られ、その首は謀反人として晒されることとなりました。


あまりにも虚しい最期ですね、、、


津田信澄は織田一門衆として信長の信頼を受け、重用されていました。しかし、信長に反逆した信勝の嫡男であるという出自から、織田家中において複雑な立場に置かれていた可能性があります。本能寺の変を契機として、明智光秀の娘婿であった信澄は謀反への関与を疑われ、それ理由に討たれたと考えられます。


「明智光秀の娘壻だから共謀している」と決めつけたというより「信勝の嫡男をいつか討とう」と決め込んでいたのでしょうか
津田信澄の子どもたち
津田信澄の子や弟たちは、本能寺の変の際に討たれることはありませんでした。
長男の織田昌澄と次男の津田元信は、かつて信澄の家臣であった藤堂高虎(演:佳久創)に仕え、文禄の役(朝鮮出兵)に出陣しています。その後、藤堂家を離れて豊臣家に仕え、大坂冬の陣では藤堂高虎の軍勢と戦い、武功を挙げました。
大坂城落城後は徳川軍に降伏しましたが、高虎の取りなしによって助命されています。以後は徳川秀忠に旗本として仕え、2,000石の知行を与えられました。


旗本として幕末まで続いています


弟の津田信糺は織田信雄に仕えていたため、本能寺の変の後も処罰を受けることはありませんでした。その後、阿波(徳島県)に渡り、蜂須賀家政に仕えています。
末弟の津田信兼は織田信孝に仕えていましたが、賤ヶ岳の戦いの後、主君である信孝とともに自害しました。


弟たちも本能寺の変のときは無事だったようですね
これらの経緯を見ると、信孝が討ったのは信澄のみであり、信勝の血筋そのものが問題視されていたわけではなかったと考えられます。むしろ、明智光秀の娘婿という立場にあったことが、本能寺の変の直後において信澄へ謀反の疑いが向けられる大きな要因となった可能性があります。
また、宣教師ルイス・フロイスは信澄について、「この若者は異常なほど残酷であり、人々は彼を暴君とみなし、その死を望んでいた」と記しています。一方で、信澄は天台宗に帰依し、信長によって焼き討ちされた比叡山の復興にも関わっていました。これに対して、織田信孝は宣教師から好意的に評価されています。
こうした宗教勢力との関係や明智光秀の関係性が、本能寺の変後の混乱の中で津田信澄の立場を不利にし、結果として討伐の対象となった可能性も考えられます。


津田信澄は本当に悲運な運命を迎えてしまいましたね
津田信澄の相関図













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