
織田信長は無宗教で天皇制を打倒しようとしていて
大量の鉄砲を持って戦ったりと
革新的なイメージがありますね

わしは古きものを排除し
新しいものを取り入れていったんじゃ

そんな信長ですが、実は凡人で普通の戦国武将だったようです
今回は近年の研究で明らかにされた信長像を調査していきます
織田信長の楽市楽座より早いのは六角定頼?
織田信長が推し進めた革新的な政策の一つに、「楽市楽座」があります。
これは、商売の自由を認め、従来の座による独占や商業規制を撤廃することで、市場経済を活性化させようとするものでした。


実はわしよりも先に
楽市楽座を行った武将がいたんじゃ
南近江(滋賀県)の戦国大名・六角定頼は、1549年に居城・観音寺城下の石寺新市を楽市と定め、商業振興を図りました。これは信長による楽市令よりも18年早い事例です。また、駿河(静岡県)の今川氏真も、1556年に富士大宮を楽市と定めています。
年 | 武将 | 説明 |
---|---|---|
1549 | 六角定頼 | 観音寺山城の石寺の市に楽市の触れを出した。 |
1566 | 今川氏真 | 富士大宮で楽市を施工した。 |
1567 | 織田信長 | 岐阜城城下で楽市場と移住者の優遇を保証した |
1570 | 徳川家康 | 三河小山新市に楽市令を出した。 |
1578 | 北条氏政 | 武蔵世田谷新宿に楽市令を出した。 |


信長よりも早くから楽市楽座を導入している武将がいるのに
信長が有名なのでしょうか?
信長は、1567年に斎藤道三の孫にあたる斎藤龍興を破って美濃(岐阜県)を平定し、「天下布武」の印判を使い始めると同時に、城下町・加納において楽市令を発布しました。
つまり、戦国大名としての信長が、天下統一を目指す道を歩み始めた重要な転機に、この革新的な政策が位置づけられています。
さらに、後に築いた安土城下では、「安土山下町中宛織田信長掟書」と呼ばれる13ヵ条に及ぶ法令を出し、商業の自由化と治安維持を徹底しました。この施策によって安土の城下町は大いに繁栄し、信長が楽市楽座政策の完成形を提示したと評価されています。
❌️ 織田信長が初めて楽市楽座を行った
⭕️ 織田信長が最も賑わった楽市楽座を生み出した


信長の楽市楽座が目立つのは
最も賑わった市を作ることができたからなんですね
織田信長は天皇を重視していた
戦国時代、織田信長の時代に、朝廷では正親町天皇が君臨していました。信長は朝廷からの官職を受け取らず、朝廷の権威に泥を塗ったしたとして対立していたとする説が広く知られています。
しかし、近年の研究では、信長はむしろ朝廷を保護し、その関係は良好であったとする見解が有力となっています。


信長は朝廷のためにどのようなことをしたのでしょうか?
信長は朝廷の権威を高めるために、経済的な支援を行いました。当時の正親町天皇は、戦乱により荒廃した京都で困窮しており、生活費を得るために自らの直筆の書を売らざるを得ないほどでした。
信長と正親町天皇の関係は良好であり、信長が合戦に臨むたびに、天皇が戦勝祈願を行ったり、陣中見舞いを遣わすなどのやり取りがあったと伝えられています。
さらに、信長は東大寺正倉院に保管されていた名香「蘭奢待」の切り取りを許されており、これは朝廷が信長を「天下人」として公式に認めた象徴的な出来事とされています。


信長や秀吉との主導権争いを行った。
もし信長が朝廷を乗り越えようとし、実際に対立していたのであれば、朝廷の政務を骨抜きにするような行動をとっていても不思議ではありません。


信長が朝廷に対抗しているなら
こんなにも官職を受けないですよね⇓⇓
年 | 年齢 | 官位 | 官職 |
---|---|---|---|
1566 | 33 | 尾張守を任官 | |
1568 | 35 | 従五位下、従四位下、正四位下 | 従五位下弾正少忠に任官 |
1574 | 41 | 従三位 | 参議に昇進 |
1575 | 42 | 従三位 | 権大納言と右近衛大将を兼任 |
1576 | 43 | 正三位 | 内大臣、右近衛大将を兼任 |
1577 | 44 | 従二位 | 右大臣、右近衛大将を兼任 |
1578 | 45 | 正二位 | 右大臣を辞任し散官 |
1582 | 49 | 三職推任に応じず |
織田信長より先に天下を取ったのは三好長慶
「天下人」といえば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三名が代表的に挙げられますが、近年では織田信長に先んじて「天下を取った武将」として、三好長慶に注目が集まっています。


天下、天下というけれど
「天下」ってなになのでしょうか
「天下を取る」とは、現代のように日本全国を統一することを意味したわけではありません。当時の「天下」とは、政治の中心であった京都およびその周辺、すなわち畿内を指しており、この地域を制圧・支配した者が「天下人」と見なされました。


畿内は山城(京都)、摂津、和泉、河内(大阪)、大和(奈良)の5カ国ですね


そもそも三好氏は、清和源氏の流れをくみ、阿波国三好郡に移り住んで「三好」を称したことに始まります。その後、阿波守護である細川氏に仕え、家宰として次第に実権を握るようになりました。応仁の乱の頃には、細川氏に従って中央政界でも頭角を現し始めます。
三好長慶は当初、管領・細川晴元に仕えていましたが、やがて対立し、摂津江口の戦いで晴元に勝利。さらには、13代将軍・足利義輝とその前将軍の義晴を近江へ追放するに至ります。
その後も勢力を拡大し、河内守護・畠山高政を追放して河内を掌握。さらに、配下の松永久秀を大和に派遣して攻略を進めました。加えて、長慶は朝廷とも積極的に接触を図り、京都を実効支配。
こうして、幕府の権威を用いることなく、「天下」と称された畿内一円を制圧したのです。


わしよりも先に天下を取ったのに
知名度がない理由はわかるか?
三好長慶の知名度が織田信長に比べて低いのは、長慶が畿内の支配にとどまったのに対し、信長は日本全国の支配を目指し、より広範な影響力を持っていたためと考えられます。
三好長慶 ➢ 畿内の支配
織田信長 ➢ 日本全国の支配
また、長慶は幕府の後ろ盾を持たずに勢力を拡大したとはいえ、時には幕府の権威を利用する場面も見られ、独自に主導権を握っていた信長とは大きく異なります。
長篠の戦いで三段撃ちはなく信長以外も鉄砲使ってた
1575年、長篠の戦いで織田信長が大量の鉄砲を用いて、当時戦国最強といわれた武田騎馬隊を打ち破ったという通説は非常に有名です。
しかも、信長はあらかじめ馬防柵を築き、鉄砲3,000挺を三段にわけて、三段撃ちを実践したということで、信長の戦術革命と言われてきました。


そうじゃ
わしが戦に鉄砲を使用する時代を切り開いたんじゃ


しかし、武田軍が一列に並んで一斉に突撃するというなら別であるが、一斉射撃を行う必然性には乏しいため、近年では「三段撃ち」は存在しなかったとする見解も有力になっています。むしろ、鉄砲隊は3人1組で交互に撃つ方式だったという解釈が主流となりつつあります。
❌️ 三段撃ちは存在しない
⭕️ 鉄砲隊は3人1組
また、長篠の戦いで使用された鉄砲が「3,000挺」とされるのも通説ですが、太田牛一の「信長公記」には「1,000挺」との記述があり、実際の数についても議論の対象となっています。


戦国時代、鉄砲は50万円程度なので、
3,000挺用意したなら15億円にもなりますね
織田信長は足利義昭を傀儡化していなかった
通説では、足利義昭は織田信長の傀儡であることに我慢できず、信長と対立し、最終的に京都から追放されたとされています。
しかし、近年の研究ではこの通説に批判的な見解が示されています。
信長は義昭政権そのものを尊重しており、過度に介入することを避け、傀儡化を意図していたわけではなく、あくまで政治的・軍事的に支援する立場を取っていたと考えられています。
もしそうなると、信長が義昭に対して痛烈な批判を行ったとされる「五箇条の条書」や「十七箇条の意見書」についても、その内容や解釈の見直しが求められるでしょう。


⇓十七条ヵ条の意見書です
義輝様は宮中への参内を怠りがちでした。それが原因で神のご加護も無く、不幸な最期を遂げられました。日頃から、義昭様に参内をお勤めになるようにと、私(信長)から申し上げておりましたが、近年は怠りがちのご様子で遺憾に思っております。
最近、信長と義昭様の関係が悪化したと噂になっています。将軍家の家宝を別の場所へ移された事は、京の内外に知れ渡っており、とても残念なことです。
諸国から金銀を集めているにも関わらず、宮中や幕府のためにお役立てにならないのはなぜでしょうか。
兵糧の米を昨年の夏に売ってしまい、金銀に換えられたと聞きました。将軍が商売をなさるなど、聞いたことがありません。義昭様のやり方には大変驚きました。
十七カ条の意見書
改めて見直すと、信長の主な目的は、気の緩みが見え始めた義昭の姿勢を正すことにあったと考えられます。
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