
「大河ドラマ豊臣兄弟」の佐久間信盛は太菅原大吉さんが演じていますね
第25話「変事の予兆」で織田信長から追放を言い渡されてしまいます

「退き佐久間」と呼ばれた織田家の筆頭家老じゃ
30年も信長様に仕えた重臣が、追放されるとはのー

それでは佐久間信盛の生涯と追放の理由をみてみましょう
佐久間信盛の年表
| 年 | 説明 |
|---|---|
| 1528 | 佐久間信晴の子として誕生する。 |
| ?? | 幼少の織田信長の重臣としてつけられる。 |
| 1551 | 織田信秀の死後も信長に付き従う。 |
| 1554 | 稲生の戦い。 |
| 1560 | 桶狭間の戦い。鳴海城の城主となる。 |
| 1567 | 大和方面の攻略を担当する。 |
| 1568 | 信長の上洛戦で箕作城を陥落させる。 |
| 1570 | 姉川の戦い。 |
| 1576 | 本願寺攻めの総大将となる。 |
| 1580 | 本願寺との和睦。 折檻状をつきつけられ高野山に追放される。 |
| 1582 | 高野山で亡くなる? 享年55。 |
佐久間信盛とは何者?「退き佐久間」と呼ばれた筆頭家老
佐久間信盛(演:菅原大吉)は、織田信長(演:小栗旬)の父・織田信秀の代から仕えた、織田家譜代の重臣です。まだ信長が幼い頃に重臣としてつけられ、信秀の死後に起きた家督争いでも、一貫して信長を支持し続けました。
佐久間信盛は合戦でもっとも難しいとされる撤退戦──殿の指揮にすぐれていたことから、「退き佐久間」の異名で呼ばれました。猛将・柴田勝家(演:山口馬木也)を指す「かかれ柴田」と並び称された、織田軍を象徴する武将です。


信長の重臣は林秀貞、佐久間信盛、柴田勝家、村井貞勝が有名ですね


佐久間氏は、桓武平氏・三浦氏の流れをくむ名門で、三浦義明の孫・佐久間家村を祖とします。承久の乱の功績によって尾張・御器所に所領を得て定住した一族でした。


「無能」のイメージが強い信盛ですが、家柄も実績も一流の重臣だったんですね
信盛は桶狭間・観音寺城・姉川・三方ヶ原・長篠など、織田家の主要な合戦のほとんどに参加。さらに大和の松永久秀(演:竹中直人)を味方に引き入れる調略や、信長の娘・徳姫を松平信康(徳川家康の嫡男)へ輿入れする際の供奉など、外交・行政の面でも織田家を支えました。
本願寺攻めの司令官・塙直政が戦死すると、信盛がその後任として畿内方面軍の司令官に就任します。多数の与力をつけられ、柴田勝家や羽柴秀吉(演:池松壮亮)をも凌ぐ、家中最大の軍団を率いる立場となりました。石高・領地・家臣団のいずれをとっても、まさに重臣中の重臣だったのです。
佐久間信盛はなぜ追放されたのか?19ヶ条の折檻状
1580年、5年に及んだ石山本願寺との戦いが、ついに和睦によって終結しました。
長い任務を果たした安堵もつかの間、信盛のもとに届いたのは褒賞ではなく、信長自らが筆を執った19ヶ条の折檻状という名の断罪状でした。
この一通の書状によって、信盛は畿内方面軍司令官と筆頭家老の地位を解任され、嫡男・信栄とともに高野山へと追放されてしまいます。30年にわたる忠勤が、たった一通で全否定された瞬間でした。
折檻状の内容を現代語訳で要約
「信長公記」に記された19ヶ条は、大きく次の3つのポイントに整理できます。
・本願寺攻めの拠点・天王寺城に5年もいながら、戦も調略もせず何の功績もあげていない。
・明智光秀は丹波を平定し、羽柴秀吉も比類ない働きをした。池田恒興は花隈城を、柴田勝家は加賀を平定した。それなのにお前だけが何もしていないではないか。
・良い家臣を養わず金銀を溜め込み、三方ヶ原では同僚の平手汎秀を見殺しにして無傷で帰還した。朝倉攻めの際の「我々ほどの家臣はお持ちになれますまい」という口答えも、根に持って蒸し返している。
そして信長は、信盛に30年仕えて「比類なき手柄と称されたことは一度もあるまい」と言い放ち、末尾で次の二者択一を突きつけます。
「無能」という信盛のイメージは、この折檻状が決定づけたといっても過言ではありません。


手柄を立てて汚名を返上せよ。それができぬのなら、髪を剃って高野山へ隠居せよ。
承知しなければ、二度と赦免はないものと思え。
一方で、当初は軽い叱責のつもりが書くうちに激情がヒートアップしたという見方もあります。本気で追放するつもりはなく、奮起をうながす「喝」だったとする説です。
事実、信長の次男・信雄は同様の折檻状を受けても行いを正して許されています。しかし信盛が選んだのは、奮起ではなく隠遁という、最後の「退却」でした。
【ネタバレあり】ドラマと史実で「追放の理由」が違う?
豊臣兄弟!第25話「変事の予兆」では、この追放劇が衝撃的な形で描かれます。
完成した安土城の祝宴で、信長は若き近習・森乱(演:市川團子)の相撲の相手に、なぜか林秀貞・佐久間信盛・安藤守就という長老格の重臣を次々と指名。寄る年波に勝てず敗れた3人に、問答無用で追放を言い渡すのです。
ドラマと史実では、追放の「理由」の描き方が次のように異なります。
史実:5年に及ぶ本願寺攻めでの怠慢・不手際
豊臣兄弟25話:佐久間信盛は本願寺との内通を疑われた(林秀貞・安藤守就は武田との内通)
ドラマでは明智光秀(演:要潤)が信長の「真意」を語るという演出になっており、追放後の信盛が高野山へ入って剃髪する姿も描かれます。
信盛が去ったあと、畿内方面軍を引き継いだのは明智光秀でした。「どれだけ忠義を尽くしても、過去の不手際ひとつですべてを失う」──この恐怖が、2年後の本能寺の変の遠因になったとも語られます。実際、旧・佐久間軍団はそのまま本能寺の変の実質的な実行部隊となりました。
佐久間信盛の最期は?死因と墓
追放された信盛は、嫡男・信栄とわずかな郎党とともに高野山へのぼりました。
しかし、「信長公記」によれば、やがて高野山にすら住むことを許されず、さらに南の紀伊・熊野へと移ったと伝わります。高野山へ落ちる時の供は2,3人、熊野へ落ちる時にはわずか1人だったといい、「信長公記」はこの父子の凋落をあわれみをもって記しています。
ただし近年は、信盛自身の書状や「多聞院日記」の記述から「高野山で平穏に余生を送った」とする見方もあり(神田千里)、「信長公記」の悲劇的な描写は誇張だとする説も出ています。
そして1582年、信盛は紀伊・熊野(あるいは高野山)で病没しました。享年55。
死因は病とされます。皮肉にも、その最期からわずか数ヶ月後に本能寺の変が起き、信盛を追放した信長もまたこの世を去ることになります。


信盛も林秀貞と同じで無念のうちに亡くなったでしょうね、、、
佐久間信盛の子孫は江戸時代も旗本として続いた
悲運の最期を遂げた信盛ですが、その血筋は生き残りました。
嫡男・佐久間信栄は父とともに追放されたものの、信盛の死の直後に赦免され、織田信忠(演:小関裕太)付きの家臣として帰参を許されます。ただし以前のような重臣ではなく、一旗本としての扱いでした。信栄はその後、本能寺の変を経て織田信雄に仕え、信雄の改易後は茶人として秀吉に仕えました。


本願寺との対陣中も茶の湯に熱中していたことが
折檻状で批判された一因とも言われています
佐久間家はその後、江戸時代を通じて幕臣・旗本として存続し、堺奉行や長崎奉行を歴任した佐久間信就などを輩出しています。
幕末には、鳥羽・伏見の戦いで幕府歩兵隊の連隊長として戦死した佐久間信久が、信盛の子孫と伝わります。主家・織田家からは追われながらも、佐久間の家名は別の地で命脈を保ったのです。


「鬼玄蕃」と恐れられた猛将・佐久間盛政も同じ一族じゃが、信盛とは別の家筋なのじゃ
佐久間信盛の家紋は「丸の内に三引両」
佐久間信盛が用いた家紋は「丸の内に三引両」です。丸の中に横三本の線を引いた、シンプルで力強い意匠です。
引両紋はもともと足利将軍家の伝統的な家紋として知られ、桓武平氏・三浦氏の流れをくむ佐久間氏もこれを家紋としました。武家の名門にふさわしい、由緒ある紋といえます。


佐久間信盛のキャストは菅原大吉さん
大河ドラマ「豊臣兄弟!」で佐久間信盛を演じるのは、数々の映像作品で重厚な存在感を放つベテラン・菅原大吉さんです。
織田家最大の軍団を率いた筆頭家老の貫禄と、栄光から一転して追放される悲哀を、深みのある芝居で表現しています。第25話「変事の予兆」の安土城の相撲シーンは、菅原さんの名演が光る見どころのひとつになりそうです。


林秀貞と佐久間信盛の転落のシーンは見どころですね
まとめ
佐久間信盛は、「退き佐久間」と称され、織田家最大の軍団を率いた筆頭家老でありながら、本願寺攻めの不手際を理由に19ヶ条の折檻状を突きつけられ、高野山へ追放された、戦国の非情を体現する悲運の宿老でした。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」第25話「変事の予兆」では、安土城の宴での相撲という意外な形でその転落が描かれます。林秀貞と並ぶ戦国最大級の「リストラ事件」華やかな天下統一の裏で進む変事の予兆に注目です。
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