
戦国時代はいろんな方が亡くなりましたが
その中には恐ろしすぎる殺され方をした人も、、、

狂った時代じゃったな

今回は恐ろしすぎる殺され方をした武将を紹介します
織田信長を狙ったスナイパー!?杉谷善住坊
尾張(愛知県)の諸大名に過ぎなかった織田信長でしたが、桶狭間の戦い以来、勢力を拡大し、ついには天下取りに名乗りを上げました。それは同時に、多くの敵を抱えることにもつながりました。
火縄銃で信長を狙った杉谷善住坊もそのうちの一人でした。
杉谷善住坊の出自については諸説がありますが、甲賀(滋賀県)の出身で代々六角氏に仕えていたとされます。
1570年5月、六角義賢からの命を受けた杉谷善寿坊は織田信長を銃撃することを決めました。信長は京都から岐阜へ向かおうと峠に差しかかっていました。
そこで待ち伏せていたのが、杉谷善住坊でした。
杉谷善寿坊は織田信長を数十メートル引きつけ、2発銃撃しました。しかし、信長に命中することはなく、暗殺は失敗に終わりました。


一説には20 mくらいの距離から狙ったそうです


狙撃された信長は怒り狂い、善住坊の場所を捜索しました。善住坊は近江(滋賀県)の阿弥陀寺に匿われていましたが、発見されて信長に引き渡されました。
拷問を受けた善住坊は死罪を申し付けられ、刑が執行されました。
その刑は信長の憎しみを具現化したような極刑でした。
善住坊を立ったまま首だけを残して生き埋めにし、竹で作った粗いノコギリで首を挽くといったものでした。粗いノコギリであったため、なかなか斬れず、長時間苦痛を与えるという恐ろしい殺され方でした。


ここまで、信長が激怒したのはなぜでしょうか?
信長がここまで激怒したのは、火縄銃を利用した銃撃は当時としては初で、杉谷善寿坊は日本初めてのスナイパーでした。
そのため、このようなことが二度とあっては困るということで、見せしめの意味を込めて、このような極刑を実行したのでした。
信長は人々に見せしめるために、通行人にノコギリを挽くのを手伝わせました。


杉谷善住坊と同じようにのこぎり引きをされた人物に
大賀弥四郎という人物がいます


織田信長の親戚にも関わらず壮絶な最期!?秋山虎繁
東美濃(岐阜県)は織田と武田の領土争いの激戦地で、岩村城はその要でした。武田信玄は西に進軍し、秋山虎繁を岩村城の攻略に向かわせました。
岩村城を守るのは未亡人となったおつやの方。おつやの方は織田信秀の妹で、信長の叔母にあたる人物でいた。また、信長の五男の御坊丸(織田勝長)を養子としていました。
大軍に包囲された岩村城は降伏を余儀なくされ、おつやの方も秋山虎繁の軍門に下りました。
本来なら、城主の命はとられてもおかしくありませんが、秋山虎繁はおつやの方を側室にするという条件で許したのでした。
こうして、秋山虎繁は岩村城の城代になったのでした。


信長の五男・御坊丸は武田の本拠地・甲府に送られました


1575年、長篠の戦いで武田が織田に大敗を喫すると、岩村城へ織田の大軍が攻めこんできました。武田勝頼の援軍もなく、岩村城は落城し、秋山虎繁とおつやの方は助命を条件に降伏しました。
しかし、城を出た2人は捕縛され、城兵は皆殺しされました。


助命は落城させるための方便に過ぎなかったのですね
2人は連行されて、長良川の河畔で処刑されることになりました。2人は逆磔の刑に処され、それはまさに残酷そのものだったといいます。
頭を下にして、絶命するまで放置されるため、味わう苦しみは相当なものでした。頭に血が溜まっていきますが、簡単に死なないように、こめかみに穴を空けたと言われています。


逆磔の刑は主にキリシタンにかけられた刑で
苦しみのあまり改宗する人が多かったようです


家臣に裏切られ磔にされた波多野秀治
明智光秀の丹波攻略の際、当初は味方をしていた波多野秀治でしたが、黒井城の赤井直正と共謀して光秀に背きました。
背後をつかれる形となった光秀は、いったん後退して兵を立て直し、2年後に再び丹波(兵庫県)に侵攻しました。


丹波は国衆が多く
治めるのに時間がかかったわい
光秀は、城を囲い込み長期戦に持ち込みました。やがて、補給路は絶たれ、城兵は飢餓に苦しむことになりました。赤井直正も亡くなっており、波多野秀治を救援するものもいなくなっておりました。
秀治は最期まで籠城する覚悟でしたが、家臣たちの裏切りに遭い、城内は大混乱に陥りました。そして、秀治とその弟は捉えられ、光秀のもとに引き渡されました。
秀治は安土へと連行され、磔にされて処刑されました。


一般的には、降伏してきた武将は切腹させますが
波多野秀治には罪人のような扱いをしてますね


織田の敵対者をかくまい焼き殺された快川紹喜
1564年、武田信玄によって恵林寺に招かれたのは、快川紹喜という高僧でした。
朝廷から「国師」という称号を送られるほどで、信玄にとっては外交や政治の相談役の人物だったようです。信玄が亡くなると、武田勝頼に仕えています。
1582年、武田家が織田信長によって滅亡させられ、恵林寺にも悲劇が襲うことになります。
甲斐には、信長と敵対した六角義定が逃げ込んでおり、武田滅亡に伴って恵林寺に匿われていました。織田信忠は恵林寺に対して、義定の身柄を引き渡すように要求しました。


しかし、快川紹喜は「寺は聖域であり、何人たりとも侵せるものでない」と引き渡しを拒否しました。そして、快川紹喜は織田との交渉中に義定を逃がしました。
このことを知った織田信長は怒り心頭し、快川紹喜を含む僧150人を寺に押し込んで、寺ごと焼き殺しました。
快川紹喜は「心頭を滅却すれば、火も自ずから涼し」と唱え絶命しました。


生き延びた六角義定は
豊臣秀吉に仕えて生き延びました





伊達政宗に切り刻まれた畠山義継
室町幕府の三管領の1つとして知られる畠山氏。その一族は東北地方に移り住み奥州管領となり、繁栄しました。
しかし、戦国時代になり室町幕府が力を失うと、畠山氏も没落しました。
奥州で勢力を拡大していた伊達政宗は畠山義継に対しても攻撃の矛先を向けました。
義継はすぐに降伏を申し入れましたが、政宗はこれを許しませんでした。所領を没収して、取り潰そうとしましたが、父の伊達輝宗の説得もお家取り潰しは断念しました。
しかし、このときに畠山義継が抱いた恨みは相当なものであったのでしょう。密かに復讐のときを狙っていました。


名門の家柄だから
伊達家に指図されたのが不服だったんでしょうね


畠山義継は伊達輝宗のもとにお礼と称して訪問し、そのまま輝宗を拉致して居城の二本松城に連行しようとしました。
そこへ騒ぎを聞きつけた伊達政宗が軍勢を率いて、義継の前に現れました。しかし、義継は輝宗を盾にしており、逃げようとしています。
そのとき、輝宗は「わしもろとも撃て」と叫び、政宗はそれに従って輝宗、義継もろとも銃撃しました。


このとき、伊達政宗は現場にはおらず
別の伊達の将が命じたとも言われています
この一件による政宗の憎しみは深く、義継の首を晒すだけでは飽き足らず、遺体をバラバラに切り刻んだといいます。
そして、木に吊るして放置し、鳥が遺体をついばみ、目もあてられないほどの惨状になり果てました。


わし以外にも恐ろしいものがいるんじゃのー


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