
戦国時代に日本は最強国家スペインから
植民地として狙われていたようです

スペインからの征服をこの豊臣秀吉が救ったんじゃよ

豊臣秀吉はどうやって
スペインから日本を守ったのでしょうか?


この記事の結論から伝えます
豊臣秀吉がスペインから日本を救ったと言われる理由
キリスト教の宣教師の背後にあるスペイン侵略意図を察知し、バテレン追放令でキリスト教の拡大を制限し、朝鮮出兵を通じて外国勢力への牽制を行ったから


わしの活躍ぶりを詳しくみていくぞ
戦国時代、日本と同時期にヨーロッパは大航海時代だった
スペインとポルトガルは、世界へと航海に乗り出した。
きっかけは、オスマン帝国(現在のトルコ)がインドからの香辛料に高額の関税を課したこと、そしてキリスト教の布教活動が活発になったことにあります。
大航海時代において、新大陸を発見した冒険家たちは、王や貴族にも匹敵する莫大な富と名声を手に入れることができました。


コロンブス、バスコ・ダ・ガマ、マゼランなどが有名ですね


当時、ローマ教皇はプロテスタント勢力の拡大に押されており、カトリック教徒を増やすために大航海を積極的に支援しました。その一環として、新大陸への航海には宣教師が派遣され、布教活動が行われました。
さらにローマ教皇は、「異教徒の土地や富は略奪してもよく、住民は奴隷にしても構わない」とする勅許を出し、カトリック諸国の侵略行為を正当化しました。


むちゃくちゃですね
それだけカトリックはプロテスタントに押されていたのかもしれません


大航海時代は欧米諸国が海外に
侵略と略奪をしに行った時代じゃったんじゃ


なぜキリスト教が植民地支配に使われたのか?
南米のインカ帝国は、スペインによって滅ぼされました。こうした先住王国が存在する地域では、しばしば宣教師が先行して現地に入り、重要な役割を果たしていました。
宣教師たちは国王に謁見し、キリスト教の聖書を示して教えを説きました。
しかし、現地の王が自らの神を信仰し、キリスト教を拒絶しようとすると、宣教師は報告書を通じて「この地は異教徒の支配する地域であり、改宗の意思もない」と本国に伝えました。
その結果、「異教徒に対しては征服や奴隷化が正当である」とするローマ教皇の勅許に基づき、スペインやポルトガルは武力をもってこれらの国を制圧し、植民地化を進めていきました。


キリスト教を信仰しない民族は
奴隷や略奪の対象となったということですね、、、


スペインやポルトガルをはじめとする欧米諸国は、アフリカ、アメリカ大陸、東南アジアなど、世界各地に植民地を築いていきました。
そして次に目を向けたのが、東アジア――すなわち中国、朝鮮半島、そして日本でした。
東南アジアを支配していたフィリピン総督は、スペイン国王に対し、「貿易と布教のために明(中国)への遠征に軍を派遣してほしい」と要請しました。
また、東アジアでの布教活動を統括していた宣教師ヴァリニャーノも、「明の征服こそが東アジアにおける最大の使命となるだろう」とする手紙をフィリピン総督に送っています。
そして、その明への侵攻において、日本は地理的にも軍事的にも、絶好の足がかりと見なされていたのです。


中国は面積が大きいので
近くの日本を味方につけたいところですね


スペインが警戒した戦国時代の日本の軍事力とは?
1549年、フランシスコ・ザビエルが日本に来日しました。これは単なる布教活動の始まりではなく、将来的な侵略を視野に入れた接触でもあったと考えられています。
あまり知られていませんがザビエルは、インドでわずか1か月のうちに1万人もの信者を獲得した、カリスマ的な宣教師でした。
彼は日本の様子を見て、「日本人は戦争を好み、貪欲である。軽率に侵略を試みれば、逆に殺されてしまうだろう」と本国へ手紙で報告しています。
また、ザビエルの後に日本を訪れた宣教師ヴァリニャーノも、フィリピン総督に対して「日本人は勇敢で軍事訓練も受けており、侵略は容易ではない。しかし、明(中国)を攻略するには日本を拠点とすることが重要だ」と述べています。


戦国時代の日本は各地で戦が起こっていましたから
侵略するのは難しいと感じますよね


さらに日本にとって幸運だったのは、1543年に火縄銃が伝来し、わずか1年で国内での生産に成功したことです。つまり、フランシスコ・ザビエルが1549年に来日した頃には、すでに戦国大名たちは鉄砲を保有し始めていました。
豊臣秀吉の時代には、国内に50万挺以上の鉄砲があったとも言われています。これに対して、同時期のイギリス軍は兵士約24,000人に対し、鉄砲の保有数はわずか6,000挺程度でした。
このように、日本の軍事力が非常に高かったことから、スペインは武力による征服ではなく、キリスト教の布教を通じて内部から影響力を拡大し、最終的に支配を目指そうとしたのです。


戦国時代の武士や兵士は全人口の10%もおり
欧米諸国は人口の1%を遥かに上回ります


キリスト教布教の裏に潜む侵略のシナリオとは?
日本を植民地化するためのシナリオ
- キリスト教の信者を日本国内で増やす
- 信者を中心にカトリック勢力を形成し、国外から支援する
- 南蛮貿易を通じて日本と関係を深めつつ、キリスト教勢力による内乱を誘発し、国家転覆を狙う
- 日本を制圧したのち、明(中国)への遠征の際に日本人を兵士として活用する
このようなシナリオのもと、宣教師たちは徐々に日本国内でのキリスト教信者を増やしていきました。


豊臣秀吉のバテレン追放令の真相
宣教師たちは、キリスト教の信者を増やし、キリシタン大名との関係を深めながら、着実に布教と影響力の拡大を進めていきました。
1580年、キリシタン大名である大村純忠は、長崎をイエズス会に寄進し、以降、長崎は日本におけるキリスト教布教の中心地となりました。
長崎は南蛮貿易によって経済的に発展していましたが、同時に宣教師たちの手によって要塞化も進められていました。
その一方で、キリスト教徒による仏教徒への迫害も行われ、非キリスト教徒の追放や、神社仏閣の破壊・教会への転用といった宗教弾圧も見られました。
さらに、長崎の港からは多くの日本人が奴隷として海外に連れ出され、売買される事例も発生しました。当時、海外に売られた日本人奴隷の数は約10万人とも言われ、これは当時の総人口の約1%に相当します。
これを知った豊臣秀吉は激怒し、次なる手に出ました。


戦国時代では、戦の捕虜が奴隷として
日本国内で取引されることはよくあったようです


さらに、博多では宣教師コエリョが、大砲を搭載したスペインの軍船を秀吉に見せ、その軍事力の強さを語ったとも伝えられています。
この一連の出来事を受け、秀吉は1587年に「バテレン追放令」を発令し、キリスト教を「邪法(邪教)」とみなしました。
あわせて、日本人を奴隷として海外に連れ出すことを禁止し、領民にキリスト教を強制することも禁じました。また、宣教師たちには20日以内の国外退去を命じました。
これに対し、宣教師コエリョは激しく反発し、ヴァリニャーノやフィリピン総督に対して、スペイン軍を派遣して秀吉と戦うよう要請しました。
しかし、ヴァリニャーノもフィリピン総督も、日本との全面戦争を避けるべきと判断し、この要請を拒否しました。


アジアにいるスペインの兵力では
到底、日本には及ばないと考えたのでしょうね
とはいえ、スペイン側も黙ってはいませんでした。
ヴァリニャーノは、南蛮貿易(スペインとの貿易)を継続したいのであれば、豊臣秀吉に宣教師の滞在を認めさせるべきだと働きかけました。
秀吉自身も南蛮貿易によって多くの富を得ていたため、これを黙認し、「バテレン追放令」を厳格には実施しませんでした。
バテレン追放令の発令後も宣教師たちは各地に潜伏しながら、密かにキリスト教の布教を続けていきました。


宣教師やキリスト教はだめじゃが
南蛮貿易はしたいしのー


豊臣秀吉の朝鮮出兵の本当の理由
天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、明(中国)を侵略するために朝鮮へ出兵したとされてきました。
しかし近年の研究では、秀吉がスペインの脅威に対抗し、東アジアにおける貿易の主導権を握ることを目的としていたという説が有力になっています。
秀吉は、日本を貿易の中心地とし、富を国内に集める体制を築こうとしていました。その第一歩が、朝鮮出兵であったと考えられています。


秀吉は貿易で国を豊かにしようとしたわけですね
その証拠に、豊臣秀吉はフィリピン総督に対し、「フィリピンは日本に服従すべきである。もし拒否するならば、軍を派遣する」とする書簡を送っています。
その後、秀吉は朝鮮出兵を開始しますが、再びフィリピン総督に対して「フィリピンはいつ日本に服従するのか」と問いただす書簡を送っています。
これに対し、フィリピン総督は激怒し、「スペインにはすでに多くの国が服従している」と返答しました。しかし一方で、秀吉が朝鮮に20万もの兵を派遣したことを知り、日本の軍事力に強い警戒心を抱いたとも伝えられています。


豊臣秀吉がここまでスペインに強気な外交を取っていたんですね


サン・フェリペ号が引き金に?キリスト教の弾圧
1596年、フィリピンからメキシコに向けて航行していたスペイン船「サン・フェリペ号」が、嵐に巻き込まれ、日本の土佐(高知県)に漂着しました。


船は大破しており、船長は修理のために支援を求めましたが、日本側の長宗我部元親と増田長盛はこれを拒否。代わりに、船の積荷をすべて没収してしまいました。
この対応に激怒したサン・フェリペ号の船長は、世界地図を広げながら「スペインは世界最強の帝国であり、日本など小さな島国にすぎない」と主張します。
さらに、増田長盛が「なぜスペインはこれほど広大な領土を手に入れたのか」と問うと、船長はこう答えたと伝えられています:
「スペインはまず宣教師を送り、現地の人々をキリスト教に改宗させる。その後、信者を味方につけて内側から支配し、最後に軍を送り征服するのだ。」
この発言は、宣教師が侵略の先兵であるという疑念を決定づけるものでした。増田はすぐに豊臣秀吉へ報告し、秀吉はキリスト教勢力への警戒を一層強めることになります。


サン・フェリペ号の乗組員は捕らえられましたが
処刑されたという記録はありません


この事件を契機に、秀吉は京都や大坂で布教活動を行っていた宣教師や日本人信徒を長崎に護送し、最終的に26人を処刑しました。これが「日本二十六聖人の殉教」として知られる事件です。
処刑の知らせはフィリピン総督にも伝わり、スペインとの関係は急速に悪化。しかし、当時のスペインはアルマダの海戦でイギリスに敗れた直後であり、さらにオランダとの独立戦争でも劣勢に立たされていました。そのため、日本と本格的に対立する余力は残されていなかったのです。


スペインは戦費と宮廷の浪費のせいで借金が膨らみすぎていたようです


最強スペインの衰退の始まりじゃな


徳川家康はキリスト教を禁じ、スペインを排除した
豊臣秀吉の死後、日本の政権は徳川家康の手に渡りました。
もし当時、スペインが依然として「無敵艦隊」と呼ばれる最強の国家であったなら、日本は侵略されていた可能性も否定できません。しかし、スペインはすでにアルマダの海戦などで勢力を弱めており、日本への直接的な軍事侵攻は起こりませんでした。
一方で、家康が政権を握った時期には、国内に約30万人ものキリスト教徒が存在していたとされます。家康は、キリスト教が内乱や外国勢力の干渉を招く危険性があると判断し、キリスト教を「禁教」として禁止します。
あわせて、布教を行っていたスペインとポルトガルを排除し、宗教活動を行わないオランダとのみ貿易関係を維持しました。この方針により、日本は宗教的・政治的に安定を図ることになります。
さらに、3代将軍・徳川家光の時代には「鎖国政策」が本格化し、キリスト教の徹底的な排除と外国勢力からの侵略リスクを封じ込めました。
この結果、日本は約250年にわたり平和な江戸時代を築くこととなったのです。


鎖国はネガティブなイメージを持たれますが
国を守るという重要な役割を果たしていたのですね


まとめ
豊臣秀吉がスペインの侵略から日本を守ったと言われるのは、キリスト教布教の背後にスペインの植民地支配の意図があるといち早く見抜き、これを警戒したためです。
豊臣秀吉は1587年にバテレン追放令を出してキリスト教の拡大を制限し、外国船の入港や貿易を統制しました。
さらに、朝鮮出兵によって対外的な軍事力を示すことで、外国勢力への牽制も行っています。
これらの施策により、豊臣秀吉は日本の独立を守った英雄と言われるのです。


バテレン追放令とか朝鮮出兵は悪く描かれがちだけど
視点を変えると、評価が全く変わりますね
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