
秀長の家臣にはあの名人の藤堂高虎がおったからのー

今回は豊臣秀長にまつわる城をみていきましょう!
豊臣秀長とゆかりのある城まとめ


豊臣秀長の歴代の城をリストアップしてみました!
年 | 城 | 説明 |
---|---|---|
1573 | 長浜城 | 兄・豊臣秀吉が城主となり、城代を務める |
1580 | 有子山城 | 但馬国を平定により城主となる。 |
1583 | 竹田城 | 美濃守を任官した際に城主となった。 |
1583 | 姫路城 | 兄・豊臣秀吉に代わって城主となった。 |
1582 | 福知山城 | 明智光秀滅亡後、城主となった。 |
1585 | 和歌山城 | 藤堂高虎を普請奉行に任命して築城した。 |
1585 | 岸和田城 | 紀州征伐後に支配下となる。 |
1585 | 郡山城 | 大和国が加増されて居城とした。 |
1585 | 高取城 | 城代は重臣・本多利久を務めた。 |


(春岳院所蔵)
豊臣秀長が築いた和歌山城
1585年、豊臣秀長は兄・豊臣秀吉から紀州征伐の功績を認められ、紀伊国(和歌山県)を与えられました。その時築かれたのが、和歌山城です。
普請奉行(築城担当)は、のちに築城の名人として知られる藤堂高虎で、この和歌山城は初めて本格的に手がけた近世城郭となりました。
和歌山城は、紀ノ川を天然の堀とし、虎伏山の山上に築かれました。白亜の大天守と小天守を櫓で連結した連立式天守が特徴で、戦国末期から江戸初期にかけての築城技術の粋を集めた城でした。
和歌山城
豊臣秀長が城主、藤堂高虎が始めて築いた近世城郭




豊臣秀長が大和郡山城へ移った後、和歌山城には家臣の桑山重晴が城主として入城しました。その後、関ヶ原の戦いののちには、東軍に属した浅野氏が城主となり、天守に下見板張りを施し、土塁を石垣に造り替えるなど、城郭としての防御性と美観を高めました。
やがて浅野氏が改易されると、徳川家康の十男・徳川頼宣が城主となり、和歌山城は紀州徳川藩の居城として整備されました。以来、和歌山城は徳川御三家の拠点として重きをなしていきます。


和歌山城は戦争の空襲により焼けてしまい
現在の城は再建されたものです
豊臣秀長の居城といえば郡山城
1585年、豊臣秀長は大和国(奈良県)を加増され、その本拠地として郡山城を与えられました。
この郡山城は、もともと大和を支配していた筒井順慶が築いた城で、豊臣秀長の時代に大規模な拡張が行われました。城の増築にあたり、豊臣秀長は紀伊国にあった根来寺の大門を移築したほか、石垣の材料として石仏や墓石などを転用するなど、急ピッチでの築城が進められました。


豊臣秀長が築城を急いだのはどうして?
秀長がこれほどまでに郡山城の整備を急いだのは、豊臣政権の中枢である大坂城を守る要衝として、郡山が極めて重要な拠点だったためです。
豊臣秀吉は、大坂城の南側の防備が手薄であることを認識していたため、その防衛線として機能する郡山城の増築を命じました。
郡山城
筒井順慶が築き、豊臣秀長が拡張した城
大坂城を守る重要な拠点


(傳香寺蔵)
郡山城主となった豊臣秀長は、強大な軍事力を持つ寺社勢力と融和し、城下町の整備と発展に力を注ぎ、その卓越した行政手腕を発揮しました。
その後、郡山城は江戸時代を通じて郡山藩の藩庁として機能し、政治と経済の中心地となります。明治維新後には多くの建物が破却されましたが、現在では追手門や櫓、天守台などが修復され、一般公開されています。


郡山城は桜の名所としても知られて
600本もの桜が咲いています


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