
「大河ドラマ豊臣兄弟」の主人公・豊臣秀長の子孫は
現在にも続いているのでしょうか?

わしを支えてくれた秀長も
子が少なかったんじゃ

今回は豊臣秀長の子孫について調べていきましょう!
↓主人公・豊臣秀長の生涯はこちら
豊臣秀長の家系図


藤堂高虎の家系図はこちら↓
豊臣秀長の子ども
豊臣秀長の実子
豊臣秀長には3人の実子がいたとされています。
豊臣秀長の実子
長男 : 木下与一郎
娘 :おみや(豊臣秀長の正室)
娘 :おきく・大善院(毛利秀元の側室)


それぞれ詳しくみていきましょう!


木下与一郎
豊臣秀長の長男は木下与一郎(羽柴小一郎)です。秀長の後継者として期待され、三木城攻めにも若くして将として参加していました。
しかし与一郎は早くに亡くなりました。亡くなった時期は正確には分かっていませんが、本能寺の変以前だったとされています。


10代で亡くなってしまったようです
与一郎は名古屋山三郎の妹・岩を妻としましたが、子をもうけることなく死去しました。与一郎の早世により秀長の直系の家は断絶し、後に養子を迎えることになりました。


豊臣ナンバー2の秀長の後継者が早世したことは
豊臣家にとって大きな痛手だったでしょうね
名古屋山三郎の記事はこちら↓
おみや
おみやは豊臣秀長の娘で、秀長の甥にあたる豊臣秀保と結婚しました。秀保の母は秀長の姉・日秀尼(とも)であり、従兄妹同士の結婚でした。
しかし秀保はわずか17歳で亡くなってしまい、結婚生活は短く終わりました。
秀保の死後のおみやの動向ははっきりしておらず、再婚した可能性も囁かれていますが、詳細は不明です。


京都の大徳寺におみやの墓らしきものがあり、
それによると1604年に亡くなったようです
おきく・大善院
おきく(大善院)は1587年に豊臣秀長の娘として生まれ、大和郡山城で養育されたと伝えられています。
秀長の死後は伯父の豊臣秀吉の養女となり、毛利秀元に嫁ぎました。当時おきくはわずか10歳で、秀元とは8〜9歳の年齢差がありました。
しかしおきくもまた、23歳という若さでこの世を去ってしまいます。このとき、おきくは秀元の子を身ごもっていたとも言われています。


豊臣秀長の子はみんな早死してしまったんですね
豊臣秀長の養子
豊臣秀長には3人の養子がいたとされています。
豊臣秀長の養子
豊臣秀保(秀長の甥)
藤堂高吉
岩・智勝院


岩・智勝院
岩(智勝院)は名古屋因幡守高久の娘で、歌舞伎の祖として知られる名古屋山三郎の妹として生まれました。
岩は豊臣秀長の長男・木下与一郎(羽柴小一郎)の妻となりましたが、与一郎が若くして亡くなったため、早くに未亡人となりました。
その後、舅である豊臣秀長の養女となり、秀長の死後に森忠政と再婚しました。忠政との間には2男3女をもうけ、夫婦仲も睦まじかったと伝えられています。


森忠政は森可成の末子で
森長可、森蘭丸の兄弟ですね
豊臣秀保
豊臣秀保は日秀尼(とも)の三男として、1579年に生まれました。
秀吉の甥にあたることから幼少期から豊臣家の重要人物として遇され、わずか9歳で侍従に任じられています。
1591年には、跡継ぎのいない秀長の養子になるよう秀吉の命を受け、秀長の実の娘・おみやと結婚しました。
秀長の死後は大和・紀伊の2国を継承し、従三位権中納言に昇進して「大和中納言」と称されました。


秀長は「大和大納言」でしたね
しかし秀保も17歳の若さで急死し、秀長の家は断絶することになりました。
その死は豊臣家に大きな影響を与え、急死であったことから暗殺説も囁かれています。
藤堂高吉
藤堂高吉は1579年、丹羽長秀の三男として生まれました。
豊臣秀吉は丹羽長秀との関係を深めるため、跡継ぎのいなかった秀長の養子として高吉を迎え入れました。


この頃、藤堂高吉は仙丸と呼ばれていました
しかし1591年、秀長が豊臣秀保を新たに養子に迎えたため、高吉は後継者の地位を失ってしまいます。
その後、秀長の家臣であった藤堂高虎の養子となり、このとき「藤堂高吉」と名乗り始めました。
高吉は高虎のもとで成長し、関ヶ原の戦いでは東軍として活躍しました。
ところが、今度は高虎に実子が生まれたことで、高吉は再び立場を失います。
最終的に分家の名張藤堂家の祖となりましたが、本家からは謀反を企てないかと警戒され続け、93歳でその生涯を終えました。


養子としての立場に翻弄され続けた生涯でしたね、、、
藤堂高虎の子孫についてはこちら↓
豊臣秀長の子孫は現在も続いているの?
残念ながら、豊臣秀長の子は若くして亡くなり、孫はいなかったため、子孫は現在に続いておりません。
豊臣秀長の子孫は現在に続いていない
豊臣秀吉の家も秀頼の代で断絶してしまったため、豊臣家は完全に途絶えました。
しかし、豊臣秀頼が大坂城を真田幸村のもとで抜け出し、薩摩(鹿児島)まで落ち延びたという説もあります。
豊臣秀頼生存説↓
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