
寧々・北政所は大河ドラマ・豊臣兄弟にも登場する人物で豊臣秀吉の妻ですね
浜辺美波さんが演じます

寧々はきれいで賢い女性だったが
秀吉のやつは浮気ばっかりだったのー

しかし、寧々は関ヶ原の戦いくらいから徳川家康に接近するようになります
なぜなのでしょうか、、、
寧々の年表
| 年 | 説明 |
|---|---|
| 1549? | 杉原定利の娘として、武士の家に生まれる。 |
| 1561 | 周囲の反対を押し切り豊臣秀吉と結婚する。 |
| 1574 | 秀吉が長浜城主となり、留守役を担当した。 |
| 1585 | 秀吉が関白となり従三位に叙され、「北政所」と称される。 |
| 1588 | 従一位に叙される。 |
| 1598 | 秀吉が亡くなり、秀頼の後見人となる。 |
| 1603 | 秀頼と千姫の婚儀を見届け、「高台院」と称して仏門に入る。 |
| 1614 | 大坂の陣では甥・木下利房に監視され、身動きが封じられる。 |
| 1615 | 豊臣家が滅亡する。 |
| 1624 | 高台院屋敷で亡くなる。享年76。 |
寧々・北政所は身分の差がある婚姻
寧々(北政所・高台院)は、織田家臣・杉原定利と朝日殿とのあいだに生まれました。その後、叔母・七曲殿に子がいなかったことから、浅野家に養女として迎えられました。
寧々は木下藤吉郎(豊臣秀吉)と、当時としては珍しい恋愛結婚をしました。実母は藤吉郎の身分があまりにも低かったため、当初は強く反対しましたが、兄・木下家定の取りなしによって、二人は結ばれました。もっとも、藤吉郎の身分の低さと周囲の反対もあり、結婚式はわらを敷いただけの質素なものだったと伝えられています。


母の朝日殿は秀吉が出世しても結婚を認めていなかったようです


織田信長に秀吉の浮気を訴える
寧々は、夫・豊臣秀吉の出世を献身的に支え続けました。しかし、秀吉の地位が上がるにつれて、その女好きぶりも次第にひどくなっていきます。ついに寧々がキレて、主君・織田信長に秀吉の素行を訴えました。
すると、信長は次のように返したと伝えられています。
「この前久しぶりに会ったがあなた(ねね)はいっそう美しさを増している。藤吉郎(秀吉)があなたに対し色々と不満を言っているようだが、言語道断である。あのハゲネズミ(秀吉)があなたほど良き女を他に得られるはずはないのだから、あなたも奥方らしく堂々として、嫉妬などしないように。この書状は秀吉にも見せてやりなさい」
かなり紳士的な内容で、女性が読めるようにひらがなで記載されていました。さらに、信長の公的文書を示す「天下布武」の朱印が押されており、信長の気遣いが見て取れます。


わしもさすがに肝が冷えたわい


寧々は豊臣家の影の功労者!?
豊臣秀吉は、織田信長の命を受けて各地へ出陣することが多くなり、居城・長浜城を留守にする機会が増えました。その間、寧々が城主代行として城を預かっていました。
1582年の本能寺の変の際には、明智光秀の軍勢が長浜城へ迫りましたが、寧々は落ち着いて人々を指揮し、近くの寺へ避難させたといいます。


宣教師ルイス・フロイスも寧々のことを高く評価していたようで
「大変な人気者で、彼女に頼めば解決できないことはない」と記しています
豊臣秀吉が関白に任ぜられると、寧々はその正室として「北政所」の称号を与えられました。この称号は関白の妻を意味し、寧々は天下人の妻として、豊臣家と朝廷との橋渡し役を担うようになります。さらに、大坂城に集められた諸大名の妻子(大名の人質)の監督・世話役も務めました。
1588年、豊臣秀吉が後陽成天皇を聚楽第に迎えた際には、その準備を周到に整えた功績が認められ、寧々は「従一位」に叙せられます。生前女性で従一位に叙されたのはわずか9名のみであり、そのうえ武家の妻としては史上初の栄誉でした。
藤原淑子(宇多天皇尚侍):宇多天皇即位の功労者として887年叙位
源倫子(藤原道長正室):長女彰子が後一条天皇を出産した功により1008年叙位
源師子(藤原忠実正室):白河天皇愛妾として妊娠したまま忠実に下げ渡され親王出産、叙位は1109年 高台院(豊臣秀吉正室):後陽成天皇が聚楽第に行幸した際、1588年に叙位
阿茶局(徳川家康側室):秀忠の末娘和子が後水尾天皇に入内の際守役としての功で1620年叙位
桂昌院(徳川家光側室):綱吉生母 1702年叙位
近衛熙子(徳川家宣正室):後水尾天皇の第5皇女 1712年叙位
広大院(徳川家斉御台所):家斉が亡くなった後、1842年に叙位
中山慶子(明治天皇生母):国母として厚遇され、1900年に叙位
寧々は豊臣家の母
寧々と豊臣秀吉との間には子がおらず、側室との間にも子がいなかったため、親戚の加藤清正、福島正則、小早川秀秋などを養育していました。彼らが豊臣秀吉の腹心(豊臣恩顧)となって、秀吉の天下統一を支えていくこととなります。


今回は豊臣恩顧の大名と寧々との相関図を作ってみました
寧々と加藤清正 福島正則の相関図


豊臣秀吉の母・大政所と加藤清正の母・伊都が従妹同士。福島正則の母が大政所と姉妹関係です。
寧々と小早川秀秋の相関図


寧々と小早川秀秋は甥の関係です。
寧々と浅野長政の相関図


寧々と浅野長政は親戚関係にあり、赤穂浪士の討ち入りで知られる浅野内匠頭も縁戚です。
寧々と淀殿との関係は?


ドラマでは寧々と淀殿は仲が悪いドロドロの関係が描写されていますが
実際はどうだったんでしょうか
寧々には子がいなかった一方で、淀殿には子がいたため、秀吉から冷遇された時期があり、両者は対立関係にあったと伝えられています。そのため、寧々を慕う豊臣恩顧の大名たちの多くが豊臣家ではなく徳川方についたとも言われます。実際、秀吉の死後、寧々は天下を治めるのは豊臣ではなく、徳川であると考え、徳川家康に接近していました。
しかし近年の研究では、寧々と淀殿の関係は良好だったという見方が有力です。寧々が淀殿の懐妊を知ると安産祈願を行ったという記録も残されており、両者の間に深い確執があったとは考えにくいです。
ただし、淀殿が出産のために大坂城から淀城へ移り住んだことや、秀吉の母・大政所の死去など、当時は慌ただしい出来事が続いたため、後世に「不仲だった」という印象が広まったとみられます。














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