
豊臣秀長の正室・慈雲院は「慶」という名前で大河ドラマ「豊臣兄弟」に登場しますね
吉岡里帆さんが演じます

秀長をよく支えた奥方じゃな

今回は、豊臣秀長の妻・慈雲院の生涯をみてみましょう
慶・慈雲院の年表
| 年 | 説明 |
|---|---|
| ?? | 出自は不明。実名も不明。 |
| 1567? | 豊臣秀長と結婚する。 |
| ?? | 夫・秀長との間に与一郎をもうけるも早世する。 |
| 1585 | 夫・秀長が大和郡山城に入ったことで転居する。 |
| 1586 | 義母・大政所と春日大社を参詣する。 |
| 1588 | 大和を訪れた徳川家康から綿500把を贈られる。 毛利輝元から紅糸100片、銀子20枚を贈られる。 |
| 1589 | 京都に移り住む。 |
| 1590 | 夫・秀長が重篤化し、祈祷を行う。 |
| 1591 | 夫・秀長が亡くなる。 |
| 1591 | 千利休切腹と連座して蒲庵古渓が磔に処されそうになった際、北政所と協力して嘆願する。 |
| 1595 | 養子・秀保が亡くなり、秀長家は断絶する。 |
| 1605 | 徳川幕府から大和4村に2,000石の知行を与えられる。 |
| ?? | 亡くなる。 |
慶・慈雲院の相関図


慶・慈雲院の出自は?
慈雲院は豊臣秀長の正室ですが、その出自や実名は明らかになっていません。大河ドラマ「豊臣兄弟!」では「慶」という名で登場します。秀長の長男・与一郎の妻であり、養女となった岩・智勝院の名にちなんで、「智雲院」という法名が与えられたとされています。


他の戦国時代の女性と同様によくわかっていない女性なんです
慈雲院と豊臣秀長の結婚時期は明らかではありませんが、1567年頃に結婚したと推定されています。二人の間には長男・与一郎が生まれました。与一郎には幼少のころから許嫁として岩・智勝院が定められていましたが、与一郎は早世し、残された岩は豊臣秀長の養女となりました。


戦国時代は幼くして亡くなる人が多いですよね、、、


慶・慈雲院は豊臣秀長の正室として何をした?
1585年、豊臣秀長は大和国(奈良県)を与えられ、郡山城に入城しました。大和での生活では、母・大政所とともに総勢150人を率いて春日大社へ参詣しており、1590年までに何度か参詣した記録があります。おそらく、大政所の娘で秀長の妹にあたる朝日姫が危篤状態にあったため、春日大社へたびたび参詣したと考えられます。
また、1588年には徳川家康から綿500把を贈られ、毛利輝元が郡山城を訪れた際には、紅糸100斤と銀子20枚を贈られています。


秀長の妻として、諸大名とも接する機会があったんですね


慶・慈雲院は秀長の死後不明
1591年1月、夫・豊臣秀長が亡くなり、その跡は養子の羽柴秀保が継ぎました。秀長の死からわずか1か月後、千利休の切腹に連座して磔に処されるところであった蒲庵古渓を、大政所とともに助命嘆願し、刑を免れさせています。


1月に秀長が亡くなり、2月に利休が亡くなるとは、豊臣家も忙しいですね
1594年、秀保は秀長の娘・おみやと婚儀を挙げ、慈雲院は親族である羽柴秀次や小早川秀秋に贈答を行いました。ところが、1595年に秀保が死去したことで、豊臣秀長の家は断絶します。大和郡山の領地は五奉行・増田長盛に与えられ、慈雲院は郡山城を去ったとされています。その後の居所は明らかではありませんが、江戸幕府から大和国の4村で合わせて2,000石の知行を与えられていたようです。


慈雲院が亡くなった年齢も不明です












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