
甚助こと副田吉成は朝日姫の夫ですね
朝日姫は豊臣秀吉の妹ですね

徳川家康との同盟のために朝日姫とは別れてもらったんじゃ

なぜ副田吉成は離縁することになったんでしょうか
↓副田吉成の妻・朝日姫の生涯
甚助・副田吉成の相関図


まずは副田吉成の相関図をみてみましょう


副田吉成の年表
| 年 | 説明 |
|---|---|
| ?? | 尾張烏森で生まれる。 |
| ?? | 副田吉成と結婚する。 |
| 1577 | 豊臣秀長の但馬攻めに従軍。 多伊城を与えられる。 |
| 1580 | 三木合戦終了後、神吉城を破却する。 |
| 1581 | 鳥取城攻めに従軍。 |
| 1582 | 本能寺の変後、居城の多伊城を攻められる。 織田信長の葬儀で、秀吉家臣とともに奉公に任じられる。 |
| 1583 | 賤ヶ岳の戦い後、佐久間盛政らを京都に護送する。 |
| ?? | 豊臣秀吉から離縁を迫られ、朝日姫と離婚する。 |
| 1586 | 朝日姫が徳川家康に嫁いで正室となる。 |
| ?? | 出家して尾張烏森で隠棲する。 |
| 1615? | 亡くなる。 |
副田吉成は朝日姫の義弟
甚助・副田吉成(演:前原瑞樹)は尾張烏森(愛知県)に生まれました。藤吉郎・豊臣秀吉(演:池松壮亮)に従い、秀吉の妹・朝日姫(演:倉沢杏菜)を妻にしました。副田吉成と朝日姫が結婚した時期についてはよくわかっていません。


朝日姫の夫は佐治日向守だったという説もあります
1577年、小一郎・豊臣秀長(演:仲野太賀)の但馬(兵庫県)侵攻に従い、若桜鬼ヶ城を攻めに従軍しました。その後、豊臣秀長の与力となり、多伊城を与えられています。また1580年、豊臣秀吉の命により三木合戦後の播磨領内の神吉城の破却を担当しています。


副田吉成は豊臣一門衆として働いていますね
明智光秀(演 : 要潤)の謀反によって織田信長(演 : 小栗旬)が横死した本能寺の変の際、副田吉成は居城である多伊城を山賊に奪われ、城を落ち延びることとなりました。
その後、豊臣秀吉が大徳寺で織田信長の葬儀を執り行った際には、杉原家次とともに奉公を命じられています。
朝日姫との離婚を迫られる
副田吉成の人生で最大の事件といえば、豊臣秀吉から妻・朝日姫との離縁を強いられたことでしょう。1585年には朝日姫は徳川家康(演 : 松下洸平)に嫁いでいますが、通説では、次のように説明されています。
小牧・長久手の戦いによって徳川の力を痛感した豊臣秀吉は、徳川家康との関係改善を図るため、人質として身内を差し出す必要がありました。そこで、実妹である朝日姫を家康に嫁がせるため、副田吉成と離縁させたとされています。離縁を命じられた副田吉成は面目を失い、尾張烏森(故郷)に帰ったともいわれますが、その後の動向については詳しく分かっていません。


このように通説では、副田吉成は秀吉の政治的策謀のために離縁させられたと考えられています。しかし近年では、本能寺の変の際に副田吉成が多伊城を山賊に奪われ、これによって秀吉の不興を買ったことが、離縁の真の原因ではないかとする説も見られるようになっています。
織田家の譜代家臣であった佐々成政(演 : 白洲迅)が、肥後国(熊本県)で発生した国人一揆を鎮圧できず切腹を命じられた例に見られるように、秀吉は領国内を十分に統治できない大名に対して厳罰を科す傾向がありました。これと同様に、副田吉成も多伊城を山賊から守ることができなかった責任を問われ、その処分として朝日姫との離縁を命じられたのではないかと考えられています。


秀吉は領国統治に厳しい人なんですね
弟の秀長も大和の国を上手に治められなかったら、改易だったかもしれませんね










コメント