
大河ドラマ・豊臣兄弟に登場する「稲田種元」は古参の家臣ですね

蜂須賀小六と義兄弟の契を結んでおったぞ

それでは稲田種元の生涯をみてみましょう
↓豊臣兄弟キャストの相関図
稲田種元の年表
| 年 | 説明 |
|---|---|
| 1545 | 岩倉織田の家臣の三男として誕生。 |
| 1553 | 父が謀反の疑いで切腹。 蜂須賀正勝に預けられる。 |
| ?? | 蜂須賀正勝と義兄弟の契を結ぶ。 |
| 1566 | 墨俣一夜城。 |
| ?? | 蜂須賀正勝、前野長康とともに豊臣秀吉に仕える。 |
| 1580 | 蜂須賀正勝が龍野5万3千石を賜り、種元はこれに従う。 |
| 1585 | 蜂須賀家政に阿波一国が与えられ、 稲田家は阿波北部に1万石の知行地を有した。 |
| 1585 | 脇城の城代となる。 城下を独自に発展させ、楽市楽座を行った。 |
| 1590 | 小田原征伐。 |
| 1592 | 文禄の役。 |
| 1597 | 慶長の役。 |
| 1600 | 関ヶ原の戦いで東軍として出陣する。 |
| 1614 | 大坂冬の陣。 |
| 1615 | 大坂夏の陣の功績で蜂須賀家は淡路を所領とする。 稲田家は淡路洲本の城代となる。 |
| 1628 | 脇城で亡くなる。享年84。 |
稲田種元は蜂須賀小六と義兄弟の契を結ぶ
1545年、稲田種元(演:沼田拓樹)は尾張・岩倉城主である織田信安の家臣・稲田貞祐の三男として誕生しました。稲田氏は「村上源氏」の流れを汲む家柄であり、代々、岩倉織田家の家老を務めていました。


岩倉織田から分かれた一族に清須織田大和守家(織田信清)があり、さらにその家臣の家筋として織田弾正忠家(織田信長)が位置づけられます。


岩倉織田(織田伊勢守家)はのちに、信長に焼き討ちにされる家ですね


父・貞祐は、清須の織田信長(演:小栗旬)と内通しているとの讒言により織田信安から切腹を命じられ、長兄もまた後を追って自害しました。
これにより、当時9歳であった稲田種元は蜂須賀正勝(小六, 演:高橋努)に預けられることとなりました。そして、このとき種元は正勝と義兄弟の契りを結んだと伝えられています。


川並衆の蜂須賀正勝、前野長康、稲田種元はもともと岩倉織田の家臣だったようです
稲田種元は蜂須賀の家老?
稲田種元は蜂須賀正勝とともに木下藤吉郎(豊臣秀吉, 演:池松壮亮)に仕え、美濃攻略の際には「墨俣一夜城」の築城に貢献しました。


稲田種元と蜂須賀正勝の深い関係を物語る有名な逸話が残されています。
1580年、蜂須賀正勝が秀吉より播磨・龍野5万3千石を与えられた際、種元にも河内国2万石が与えられようとしました。しかし種元は、「拙者は小六と兄弟の契りを結び、ともに働いてきた。今、河内国に所領を賜れば、小六に出仕することが叶わなくなる」と述べ、2万石の禄を辞退したと伝えられています。


稲田種元は蜂須賀正勝の近くで働きたいんですね
1585年、四国征伐の功績により、秀吉は蜂須賀家に阿波一国(徳川県)を与えました。これに伴い、稲田氏にも阿波北部1万石の知行地が与えられました。
しかし当時の阿波には有力な土豪や三好氏の残党、さらに諸浪人が数多く存在しており、統治は容易ではありませんでした。このため蜂須賀正勝は、稲田種元に対し、長男・蜂須賀家政の後見を託す内容の書状を送っています。このことから、種元は蜂須賀家の単なる家老ではなく、「客分」として阿波にはいりました。


稲田種元が客分として蜂須賀のもとで働くことや1万石の知行地をもっていることで
後々問題が、、、
稲田種元は脇城の城代となり、その整備と発展に尽力しました。軍事面では城を大規模に改修して堅牢な要害とし、商業面では楽市楽座を実施して商人の自由な往来を奨励しました。その結果、城下町は四国のみならず中国地方からも人々が集まるほどに繁栄しました。


商売では特に藍染めが有名で栄えたようです


稲田家と蜂須賀家の子孫に起こったいざこざ


稲田種元が蜂須賀に客分として仕え、知行地を1万石も有していたことから起こった事件とは?
大坂夏の陣の後、蜂須賀家は淡路一国を加増され、稲田氏は淡路・洲本城の城代を務めることとなりました。これにより、稲田氏は1万4千石を領し、家臣は3千人を数えたとされています。この待遇は、主家である徳島藩蜂須賀家の家臣としては破格のものでした。
また、稲田種元はもともと客分として蜂須賀家に迎えられた経緯があり、幕藩体制の確立が進むにつれて、主従関係は次第に微妙なものとなっていきました。さらに、蜂須賀家は養子相続によって血統が変わっていたのに対し、稲田氏は初代・種元以来、その血統を連綿と受け継いでおり、このことも両家の意識の差につながっていたと考えられます。


稲田氏が家臣としては大きな勢力で、立ち位置が微妙だったんですね
やがて幕末の戊辰戦争を迎えます。当時の蜂須賀家当主は徳川家から迎えられた人物であり、当初は幕府側に属していました。一方、稲田氏は尊王攘夷を支持し、両者の溝はさらに深まっていきました。
しかし、新政府軍が優勢になると、蜂須賀家も倒幕側へと転じました。もともと倒幕の立場をとっていた稲田氏は、新政府側として多くの戦功を挙げることとなります。
ところが、明治維新後の論功行賞において、蜂須賀家の家臣が「士族」とされたのに対し、稲田氏の家臣は「卒族」とされました。卒族は士族よりも下位の身分であり、家老格であった稲田家にとっては到底受け入れ難い処遇でした。稲田家はこの決定の撤回を求めて政府に訴えましたが、聞き入れられませんでした。
そこで稲田氏は、徳島藩からの独立を宣言し、淡路・洲本において洲本藩の樹立を画策しました。これに激怒した蜂須賀家の家臣団は、稲田家の屋敷を焼き討ちし、死者17人、負傷者20人、家屋25軒を焼失するという大事件へと発展しました(稲田騒動)。
この事態を重く見た明治政府は鎮圧に乗り出し、首謀者ら蜂須賀家の家臣10人を切腹、関係者100人余を流罪および謹慎処分としました。そして稲田氏には、淡路を離れて北海道の開拓に従事するよう命じられたのです。


初代の稲田種元は蜂須賀家に身命を賭し仕えた人物なのに
子孫はその主家といざこざとは、、、









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