
豊臣秀吉、秀長の母は大政所(なか)ですね

わしらの大事な母ちゃんじゃ
激動の暮らしに飛び込ませてしもうたの

今回は豊臣秀長の母・大政所(なか)の生涯をみていきましょう
豊臣兄弟の主人公・豊臣秀長の生涯はこちら↓
大政所(なか)の年表
年 | 説明 |
---|---|
1516 | 美濃の鍛冶師・関兼貞の娘として生まれる。 |
?? | 木下弥右衛門と結婚する。 |
1534 | 長女・日秀尼を出産する。 |
1537? | 長男・豊臣秀吉を出産する。 |
?? | 最初の夫・木下弥右衛門が亡くなる。 |
?? | 竹阿弥と再婚する。 |
1540 | 次男・豊臣秀長を出産する。 |
1543 | 次女・朝日姫を出産する。 |
?? | 竹阿弥が亡くなり、豊臣秀吉を頼る。 |
1573 | 豊臣秀吉が長浜城主となり、長浜に移り住む。 |
1582 | 本能寺の変による混乱のため北政所とともに 長浜城から逃れる。 |
1585 | 「大政所」の称号を授かる。 |
1586 | 徳川家へ人質として送り込まれる。 |
1590 | 次女・朝日姫に先立たれる。 |
1591 | 次男・豊臣秀長に先立たれる。 |
1591 | 豊臣秀吉を説得して朝鮮出兵を中止するように懇願する。 |
1592 | 享年77。 |


大政所は資料が少なく
わかっていないことも多いです
大政所(なか)は豊臣兄弟の母
大政所(なか)は、尾張国愛知郡御器所村(名古屋市)で生まれました。伝承では、美濃国(岐阜県)の鍛冶師・関兼貞の娘とされています。
織田家の雑兵だった木下弥右衛門に嫁ぎ、日秀尼(とも)と豊臣秀吉をもうけました。弥右衛門の死後、竹阿弥と再婚し、豊臣秀長と朝日姫を産んだと伝えられています。


このあたりは記録がはっきり残っておらず
秀吉が過去を話さなかったため、よくわかっておりません


竹阿弥の死後は、織田家で頭角を現し始めていた豊臣秀吉を頼って暮らしました。
秀吉が長浜城主になると、大政所は秀吉の正室・北政所(ねね)とともに生活し、嫁姑ながら実の親子のように親しい関係だったと伝えられています。


百姓のなかでも力をもっていたと考えられる。
大政所(なか)は福島正則の叔母で加藤清正の親戚!?
豊臣秀吉は一代で天下人となったため、血縁の「一門衆」と呼べるような信頼できる親戚の家臣がいませんでした。また、実子にも恵まれなかったため、親戚筋の男児を家臣として取り立てました。
大政所の甥である福島正則や、親戚の加藤清正を登用し、ほかにも小西行長、青木一矩などを重用しました。




秀吉はねね・北政所の親戚も家臣にしていますね
大政所(なか)は豊臣秀吉の意向で徳川家の人質になった?
豊臣秀吉が大坂城を築くと、大政所(なか)と北政所(ねね)もそこに移り住みました。この頃、秀吉は関白となり、その母であるなかは「大政所」の称号を与えられました。


「大政所」は関白の母親を意味する称号ですね
やがて豊臣秀吉と徳川家康との間で小牧・長久手の戦いが起こり、両者の関係は悪化します。秀吉は和睦の証として実妹の朝日姫を人質として家康のもとに送りましたが、それでも家康は応じませんでした。
最終的に秀吉は実母である大政所を家康のもとに送り込み、これによって和睦を実現させたのです。


実の母親を敵方に送るほど
秀吉は必死だったんですね


容姿端麗なため、大政所や侍女たちから気に入られた。
大政所(なか)が亡くなったときに豊臣秀吉は卒倒した?
大政所は1590年頃から、加齢のためか体調不良が続きました。1516年生まれなので当時74、75歳であり、当時としてはそろそろ寿命という年頃でした。
大政所自身もそれを自覚していたようで、「私が生きているうちに墓の支度をしてほしい」と秀吉に頼んだと伝えられています。これを聞いた秀吉は天瑞寺を建立し、その頃には大政所の体調もいくらか回復したようです。


大政所も墓が完成して心のつっかかりが取れたのかもしれませんね


秀長に木材の調達をさせたんじゃ
1591年に豊臣秀長が亡くなり、秀吉が朝鮮出兵の準備を始めると、大政所は秀吉の身を案じて渡海をやめるよう懇願しました。秀吉はこれを無下にできず、計画を1年延期しました。
しかし1592年、秀吉が朝鮮に出兵中に大政所は亡くなりました。甥の豊臣秀次から危篤を知らされて大坂に戻りましたが、すでに亡くなっていたことを知ると、秀吉は卒倒してしまったといわれています。


天下を取った秀吉も母親が大好きなのが
人間味感じますよね
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