
藤原道長の娘は何人も天皇に入内しましたが
一体何人入内したんでしょうか

道長様の正妻の倫子様の娘は4人いて
4人とも天皇に入内したわよ

今回は道長の娘がどのような生涯を送ったのかをみてみましょう
藤原道長の娘
藤原道長(演 : 榎本佑)は何人か妻がいましたが、正室は源雅信(演 : 益岡徹)の娘の倫子(演 : 黒木華)で、倫子と間に生まれた娘が天皇に入内しました。


源雅信は左大臣までのぼりつめた人物ですね
道長は倫子との間に、長女・彰子、次女・妍子、三女・威子、四女・嬉子をもうけ、4人とも、天皇に入内しました。ちなみに、倫子は藤原頼通、藤原教通の男児を出産しています。


倫子様は6人も子を出産しているのよ
しかも6人目は44歳よ
道長の娘の家系図


彰子は一条天皇に入内
長女・彰子は、一条天皇に入内しました。彰子はわずか12歳で入内しましたが、このとき一条天皇にはすでに皇后・定子がいたため、なかなか一条天皇との間に子ができませんでした。


道長が無理やり彰子を入内させたことで
中宮と皇后がいる異常な状態が起こってしまいました
定子が亡くなると、彰子は一条天皇の第一皇子の敦康親王の養母となりました。しかし、このとき彰子は13歳であったため、母の倫子が積極的に育児に関わったと言われています。
道長が彰子の懐妊を祈り続けた結果、彰子は20歳で第二皇子を懐妊しました。彰子は30時間にも及ぶ難産の末に、後一条天皇(敦成親王)を出産し、一条天皇も道長も安堵したと言われています。


女御たちも総出で彰子さまの出産を支援したわ
藤原伊周は彰子の出産に不満を持ち、道長や彰子に呪詛しようとしましたが、呪詛が発覚して失脚しました。その後、彰子は第三皇子・後朱雀天皇(敦良親王)を難なく出産しました。
一条天皇は道長の意を聞き入れて出家しましたが、彰子はこのことをよく思っていませんでした。しかし、彰子には道長に対抗できるだけの政治力を持ち合わせておらず、一条天皇は出家してしまいました。その後、一条天皇は程なくして崩御し、彰子は皇太后となりました。


彰子は24歳の若さで夫・一条天皇を失ってしまったんです、、、
一条天皇の後を継いだ三条天皇が道長から譲位を迫られて、譲位し、後一条天皇が即位すると、彰子は太皇太后となり、出家しました。出家した後、彰子は上東門院と称し、道長が建立した東北院に居住地を移しました。


彰子様は「賢后」として有名だったのよ
妍子は三条天皇に入内
次女・妍子は三条天皇(是貞親王)に入内しました。妍子が入内した時、三条天皇にはすでに娍子が入内しており、三条天皇からの寵愛も厚く、4人の男児をもうけていました。妍子と三条天皇の年齢差は18歳で、ほぼ親子ほどの差があったとされています。


三条天皇の第一皇子と妍子は同い年でした
三条天皇は冷泉系、一条天皇は円融系の天皇であったため、一条天皇を推していた藤原道長にとって、三条天皇は結びつきの薄い天皇でした。そのため、道長は次女・妍子を入内させました。しかし、妍子は女児しか出産せず、期待されていた皇子の誕生は実現しませんでした。道長の妍子の子を天皇にするという目論見は崩れ、三条天皇に早々に譲位を迫りました。


道長の娘を利用した政治的な動きがすごいですね、、、


妍子は道長の娘たちの中でも特に美人であり、兄・藤原頼通が叱責するほどの贅沢好きであったといわれています。とはいえ、皇子を産めなかった妍子が歴史の表舞台に戻ることなく、ひっそりと暮らしました。


派手好きでありましたが
死に際は、身を清め亡くなったようです
威子は後一条天皇に入内
三女・威子は後一条天皇に入内しました。後一条天皇は姉・彰子の皇子で、一条天皇の子でした。後一条天皇が元服するのを待って、威子は20歳で入内しました。夫の後一条天皇よりも9歳も年上で、威子はこのことを恥ずかしがったといいます。


姉の子と結婚するのって
どうなんでしょうか、、、
道長は威子以外が後一条天皇に入内することを拒み、後一条天皇は生涯、配偶者を威子のみとしました。これは道長の権威性を示すものであり、道長は威子が入内したことで、皇后・皇太后・太皇太后をすべて自身に娘としました。これは前代未聞のことであり、このときに、「この世ば わが世とぞ思う望月の 欠けたることのなしと思えば」という歌を詠んだとされています。


摂関政治が絶世期のときですね
威子は後一条天皇の唯一の皇后でしたが、生まれたのは女児2人でした。周囲は皇子の誕生を心待ちにしていたため、落胆しましたが、後一条天皇は「女帝がたったこともある」と慰めたと言われています。その後も、男児がうまれることはなく、後一条天皇は崩御し、威子もまた疱瘡でなくなりました。


後一条天皇は道長の影響を強く受けた天皇でしたね
嬉子は後朱雀天皇に入内
四女・嬉子は後朱雀天皇に入内しました。入内した当時、後朱雀天皇が皇太子でした。14歳のときに入内し、19歳のときに後冷泉天皇を出産しましたが、出産した2日後に亡くなってしまいました。


平安時代も出産は命懸けですね
嬉子は後朱雀天皇が天皇となる前に亡くなってしまいましたが、嬉子の産んだ子は後をついで、後冷泉天皇となりました。しかし、その後冷泉天皇にも跡継ぎができなかったため、藤原摂関政治の斜陽のはじまりとなりました。


この後、白河天皇による院政が始まっていきますね
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