
藤原伊周は三浦翔平さん演じる
藤原道長の政敵ですね

藤原伊周は道長に呪詛ばかりしているわね

藤原伊周は「光る君へ」で描かれるほど残念な人だったんでしょうか?
藤原伊周は藤原道長の甥
藤原伊周(演 : 三浦翔平)は藤原道隆(演 : 井浦新)の子として誕生しました。藤原道隆は藤原道長(演 : 榎本佑)の兄で藤原兼家(演 : 段田安則)の嫡男です。伊周の兄妹には中宮・定子(演 : 高畑充希)がいます。




藤原伊周は関白の息子なのでいいところの生まれですね
藤原伊周はわずか21歳で内大臣
藤原伊周は関白・藤原道隆の跡継ぎであったため、強引に地位が引き上げられました。そのため、左大臣の源雅信(藤原道長の妻・倫子の父)がなくなると、藤原道長を超えて、21歳の若さにして内大臣になっています。


内大臣といえば、左大臣、右大臣に次ぐ役職ですね
しかし、伊周が内大臣になったことで貴族たちは不満を募らせることになってしまいました。さらに、後ろ盾であった父・藤原道隆が亡くなってしまうと、伊周の立場は危うくなってしまいます。


大納言や道長が宴に参加しないなど
ボイコットがあったようです
藤原伊周の没落は矢を射たから?
父・藤原道隆の死後、藤原伊周は関白になることを約束されていましたが、一条天皇の生母・詮子(演 : 吉田羊)の政治的動きにより、関白になることができず、叔父の藤原道兼が関白となりました。しかし、道兼は病気ですぐに亡くなってしまったため、後は藤原道長が継ぐことになりました。


このとき、道長様は「関白」ではなくて「内覧」よ


道兼は「七日関白」と呼ばれていますね
伊周は花山法皇が自分の好きな三の君のところに通っていると勘違いしてしまい、弟の藤原隆家と謀って、法皇に向かって矢を放つという事件がおきました。当時の貴族の間では、暴力沙汰は珍しくなく、伊周は道長との間でも諍いを起こしていましたが、譲位した法皇に矢を射掛けるというのは政治的に問題となりました。


法皇の袖にささったようです
この「長徳の変」の事件により、藤原伊周は太宰府に左遷され、弟の藤原隆家は出雲に左遷されることになりました。しかし、伊周は簡単には左遷されず、中宮・定子の家に籠城しました。派遣された検非違使(警察)によって屋敷が潰され、弟の隆家は捕まって左遷されましたが、伊周は逃げ続けました。最終的に伊周も捕まり、太宰府に左遷されることになりました。


伊周は悪あがきが見苦しいわね
藤原伊周の悪あがき
一条天皇の生母・詮子の病状が悪くなったことを、伊周を左遷したことによる原因ではないかと考えた道長は、伊周を京都に呼び戻しました。


これによって政敵を許した道長の人望が高まったんですよね
中宮・定子が亡くなり、一条天皇との結びつきが弱まることを恐れた伊周は、定子の子・敦康親王の後見人として政界に復帰することになりました。しかし、一条天皇と彰子の間に敦成親王(後一条天皇)が生まれると、伊周は立場の危機を悟りました。そこで、敦成親王の誕生の宴で、次のような祝の文章を出しました。
隆周の昭王、王暦数長く、わが君また暦数長し。
本朝の延暦延喜胤子多く我が君また胤子多し。
康きかな帝道。誰か歓娯せざらんや。
この文章には、藤原道隆と伊周の諱の「隆」と「周」が含まれており、定子の子で自分が天皇にした敦康親王の「康」が含まれており、敦成親王の誕生の宴であるにもかかわらず、自分のことしか考えていないとみなされ、ひんしゅくを買い、失脚しました。


伊周は自分のことしか考えていない
自己中な人物なのかもしれませんね
藤原伊周の死因は?
藤原伊周の死因についてははっきりとはしていません。37歳で亡くなったことを考えると、病死ではないでしょうか。


晩年は散々な目に遭ってしまいましたね
伊周は死に際、2人の娘たちには「結婚や宮仕えで、親の名(伊周)に恥をかかせてはならぬ」、長男には「人に追従して生きるぐらいならば出家せよ」と言い残しました。
その教えからか、長女は道長の息子の正室、次女は道長の娘・彰子に仕えることになります。しかし長男はその後生活も素行も荒れて、伊周の屋敷も荒れ果ててしまいました。


中関白家は藤原隆家が優秀だったのに
伊周の代でとまってしまいましたね。。。
藤原伊周は枕草子の生みの親?
枕草子には次のような一文が残っています。
この草子、宮の御前に、内大臣(伊周)の奉り給へりけるを、
「これに何を書かまし。」などのたまはせしを、
「枕にこそははべらめ。」と申ししかば、
「さは、得てよ。」とて給はせたりしを
枕草子 (清少納言)
現代語訳すると、次のようになっています。
この草子は、中宮様に内大臣・藤原伊周が献上なさった紙を、中宮様は「これに何を書こうかしら」とおっしゃったので、私(清少納言)は「枕でございましょう」と申すと、「それならば、あげましょう」と中宮様はいって私(清少納言)にお与えになられたが、
つまり、内大臣・藤原伊周が中宮・定子に献上し、それを定子が清少納言に与えました。


ある意味、藤原伊周が「枕草子」の生みの親かもしれませんね
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