
弥助こと三好吉房は関白となる豊臣秀次の父親ですね

わしの姉(日秀尼)の夫なんじゃが
晩年はひどい目にあわせてしもうたのー

いったい三好吉房にはなにがあったのでしょうか?
詳しくみていきましょう
↓三好吉房の妻・日秀尼(とも)の生涯
弥助・三好吉房の相関図


まず、三好吉房の相関図をみてましょう




秀次の実父でわしの義兄じゃよ
三好吉房の年表
| 年 | 説明 |
|---|---|
| 1534? | 尾張に生まれる。出自ははっきりしない。 |
| ?? | 日秀尼(とも)と結婚する。 |
| 1564 | 秀吉の馬牽となっている。 |
| 1568 | 長男・豊臣秀次が生まれる。 |
| 1569 | 次男・豊臣秀勝が生まれる。 |
| 1579 | 三男・豊臣秀保が生まれる。 |
| ?? | 豊臣秀次が三好康長の養子となる。 吉房も三好姓を名乗る。 |
| 1590 | 豊臣秀次が尾張、伊勢の大名となり 吉房も尾張犬山10万石を領する。 |
| 1592 | 文禄の役(朝鮮出兵)で次男・秀勝が亡くなる。 |
| 1595 | 三男・豊臣秀保が病で亡くなる。 北政所に懇願して、葬儀を執り行ってもらう。 |
| 1595 | 長男・豊臣秀次が秀吉の命により切腹する。 孫・5人は打首とされる。 自身は讃岐に流され軟禁される。 |
| 1598 | 豊臣秀吉が亡くなる。 赦免されて京都に戻る。 |
| 1600 | 本圀寺で子と孫の菩提を弔う。 |
| 1612 | 下野国足利で亡くなる。享年79。 |
三好吉房の名前
弥助(尾張の百姓時代)
↓
木下弥助(木下藤吉郎秀吉の家来時代)
↓
三好(武蔵守)吉房(長男・秀次が三好康長の養子時代)
↓
三好一路(出家後)
三好吉房が尾張の百姓であった頃、「弥助」でした。秀吉の姉・日秀尼を妻とすると、「木下弥助」と名乗り、秀吉の縁者として活躍していきます。


秀吉は「木下藤吉郎」と名乗っていましたね
その後、長男の秀次は阿波三好一族の三好康長の養子となり、「三好信吉」と名乗りました。これは、織田信長の四国攻略を進めるにあたり、豊臣秀吉が政略として仕掛けた養子縁組でした。名門である阿波三好家に入ったことから、弥助も三好姓を名乗り、「三好吉房」と称するようになります。「吉」の字は秀吉からの偏諱(名を与えられること)であったといわれています。


秀次が名乗っていた「三好信吉」は信長と秀吉から偏諱されていると思われます
秀吉が亡くなり、赦免されると京都に戻って「三好一路」と号しました。
弥助 三好吉房は豊臣秀吉の義兄
三好吉房(弥助)は1534年頃、尾張国(愛知県)で生まれたとされています。吉房の出自は明確ではなく、両親についても記録が残っていません。豊臣秀吉や、妻である日秀尼(とも)と同様に、苗字を持たない百姓身分であったと考えられています。
その後、吉房は秀吉の姉である日秀尼を妻としたことで、運命は大きく動き始めます。1564年には秀吉の縁者であったことから秀吉に仕えることになり、馬引きを務めるようになります。この頃から「木下弥助」と名乗るようになりました。


1568年には、長男の豊臣秀次、1569年には次男の豊臣秀勝、1579年には、三男の豊臣秀保が生まれ、豊臣一族で最も子宝に恵まれました。


この子どもたちが悲劇に巻き込まれていくことになります
豊臣秀次切腹事件で三好吉房も転落、、、
1590年、長男の秀次が旧織田信雄の領地であった尾張・伊勢をあわせて100万石近くを領するようになると、吉房もその配下に組み込まれ、犬山城10万石を与えられました。
秀吉の姉と結婚したことで、尾張の百姓から大出世を遂げたかのように見えた吉房でしたが、3人の息子たちを次々に失い、その栄達は大きく陰り始めていきます。


1592年、次男の秀勝が文禄の役(朝鮮出兵)の中に亡くなりました。1595年には、三男の秀保が病により死去します。そして、そのわずか3か月後には、長男の秀次が謀反の疑いをかけられて切腹を命じられました。これにより、吉房も連座して讃岐(香川県)へ流され、軟禁状態に置かれることとなります。


そもそも吉房には政治的才能が見られなかったようで、秀吉や秀長はもちろん、能力が劣ると評される長男・秀次と比べても実力に乏しかったと言われています。そのため、この機会に吉房を豊臣家から排除しようとする思惑が働いた可能性も考えられます。


もともと百姓だったので、政治能力がないのは仕方ないですよね、、、
1598年に豊臣秀吉が亡くなると、吉房の罪は赦免され、京都へ戻ることが許されました。以後は本圀寺において子や孫たちの菩提を弔い、この頃に「一路」あるいは「日海」と号して出家しています。
その後1612年、吉房は下野国足利で79年の生涯を閉じました。
三好吉房の子孫
三好吉房には三人の息子がいましたが、長男の豊臣秀次の子は秀吉により処刑され、三男の豊臣秀保には子がいませんでした。しかし、次男の豊臣秀勝は浅井長政の三女・江と結婚し、一女・完子をもうけています。
完子は公家であり、のちに関白となる九条幸家に嫁ぎました。その子孫は公家社会の中で連なり、やがて昭和天皇へと至り、現在の天皇へも系譜が続いています。


完子は江の子として徳川と公家の関係を取り持っていました
















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