
お市の方は大河ドラマ・豊臣兄弟にも登場する人物で織田信長の妹ですね

お市様は戦国一の美女と言われるほど美しかったんじゃ

夫の浅井長政が信長を裏切ったかと思えば、再婚相手の柴田勝家が秀吉に敗れるという波乱万丈人生をみてみましょう
お市の方の年表
| 年 | 説明 |
|---|---|
| 1547? | 織田信秀の娘として生まれる。 織田信長の妹。 |
| 1568? | 浅井長政と結婚する。 |
| 1569 | 長女・茶々が生まれる。 |
| 1570 | 次女・初が生まれる。 |
| 1570 | 夫・浅井長政が兄・織田信長を裏切る。 金ヶ崎の戦い。 |
| 1570 | 姉川の戦い。 |
| 1573 | 三女・江が生まれる。 |
| 1573 | 小谷城が落城し、夫・浅井長政が亡くなる。 3人の娘とともに織田家に引き取られる。 |
| 1582 | 兄・織田信長が本能寺の変で亡くなる。 |
| 1582 | 柴田勝家と結婚し、北ノ庄城に移る。 |
| 1583 | 賤ヶ岳の戦いで夫・柴田勝家が敗れる。 夫ともに亡くなる。享年37。 |
お市の方の相関図


お市の方は有名人なのに生年も結婚年も不明
戦国時代の女性には謎の多い人物が少なくありませんが、織田信長の妹として知られるお市の方もその一人です。通説では1547年生まれとされ、信長より13歳年下といわれています。父は織田信秀、母は土田御前で、信長と同母兄妹とされます。
しかし、この両親説には異論もあり、「実は信長のいとこだったのではないか」という説も存在します。浅井長政との婚姻の際に、政略的な目的から「信長の妹」とされた可能性もあるといわれています。


やっぱり有名なお市でも、女性についてはわからないことが多いんですね
お市の方は浅井長政と結婚したことで知られていますが、その婚姻の時期については定説がなく、1561年説、1563年説、1568年説など諸説があります。浅井長政の長男・万福丸は1564年に生まれていますが、結婚の時期によってはお市の実子ではない可能性も指摘されています。
一方で、浅井長政とお市の方の間には「浅井三姉妹」がいます。茶々は1569年、初は1570年、江は1573年に誕生しており、これらの年次を踏まえると、1568年頃に結婚したと考えるのが最も自然です。当時の戦国武将は常に戦続きで命の保証もなかったため、早期に跡継ぎをもうけることを望むのが一般的でした。その点からも、1568年説がもっとも妥当だといえるでしょう。


浅井長政とお市様は仲睦まじかったようじゃな
悔しいのー
お市の方の小豆袋は創作
お市の方の輿入れによって、織田信長は浅井長政と同盟を結び、その後、足利義昭を奉じて上洛を果たしました。これにより、浅井氏と織田氏の関係はいっそう強固になりましたが、その関係は長く続きませんでした。
信長が越前の朝倉義景討伐のために北近江を通過し、越前へと進軍。浅井長政は織田を取るか朝倉を取るかの苦渋の決断を迫られます。朝倉家とは代々の友好関係があったため、最終的に長政は織田との同盟を破棄し、織田軍の背後を急襲しました。(金ヶ崎の戦い。)


このとき、お市の方が兄・織田信長に、両端を縛った小豆袋を送り、織田軍が挟み撃ちに遭うことを暗に知らせたという逸話が伝わっています。しかし、これは後世の創作と考えられています。
とはいえ、当時の風習として、大名同士の政略結婚では、女性が嫁ぎ先に「間者」として送り込まれることも少なくありませんでした。そのため、お市の方やその侍女が浅井家の情勢を信長に伝えていたとしても、不思議ではありません。
絶体絶命の危機に陥った信長は、金ヶ崎から退却し、京都へと戻りました。


金ヶ崎の戦いで手柄を挙げた豊臣秀吉と明智光秀は浅井長政のおかげで出世の契機になったともいえますね
お市は叔父・織田信次の保護下へ
浅井長政と織田信長は姉川の戦いで激突したのち、1573年に長政の居城・小谷城が落城し、浅井家はついに滅亡しました。
お市の方と三姉妹は小谷城から脱出し、尾張国守山城主であった叔父・織田信次に保護されたと伝えられています。のちに信次が長島一向一揆で戦死すると、お市たちは信長のもとへ送られ、岐阜城で暮らしたとされています(なお、伊賀国の兄・織田信包が保護したとする説もあります)。




信長の妹なだけに不自由なく暮らしていたでしょうね
1582年、本能寺の変が起こり、織田信長が自害しました。このとき、お市の方がどこにいたのかは明確ではありませんが、状況次第では命を落としかねないほどの危険にさらされていたと考えられます。実際、豊臣秀吉の妻・北政所は、明智軍に長浜城を攻められて逃走しています。
お市の方は柴田勝家と自害する
豊臣秀吉が山崎の戦いで明智光秀を討ち取ったのち、織田家の重臣たちが今後の方針を話し合う「清州会議」が開かれました。
この会議で、信長の三男・織田信孝が自身の処遇に不満を抱き、柴田勝家に協力を求めます。その後、信孝の仲介によるものか、あるいは勝家と秀吉の間で何らかの交渉があったのかは定かではありませんが、この頃にお市の方は柴田勝家と再婚することになりました。
お市の方と柴田勝家の年齢差はおよそ25歳。父娘ほどの差がありました。勝家は信長死後の織田家再建に奔走しており、翌年には賤ヶ岳の戦いで秀吉と対立します。そのため、二人が夫婦として穏やかな日々を過ごす時間はほとんどなかったと考えられます。


戦が無くても柴田勝家はお市の方を主君の妹として丁重に扱ったでしょうね
夫・柴田勝家と豊臣秀吉の間で、ついに「賤ヶ岳の戦い」が勃発しました。戦は秀吉方の勝利に終わり、柴田勝家は居城・北ノ庄城(福井城)へと追い詰められます。
勝家はお市の方に降伏を勧めましたが、お市の方はこれを固く拒みました。彼女が自害を選んだ理由については諸説あり、「秀吉を嫌っていたから」ともいわれますが、真意は定かではありません。
結局、お市の方は勝家と運命を共にし、自害しました。享年37。三人の娘―茶々・初・江の三姉妹は、秀吉の保護を受けることになります。















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