【大河ドラマ・豊臣兄弟!】柴田勝家(演 : 山口馬木也)はなぜお市と結婚したのか?豊臣秀吉に敗れた訳は?

大河ドラマ
歩兵くん
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柴田勝家大河ドラマ・豊臣兄弟にも登場する人物で織田信長家臣ですね

織田信長
織田信長

お市を嫁にもらっておきながら

秀吉と対立して敗れてしもうたな

歩兵くん
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柴田勝家はなぜ格下だったはずの秀吉に敗れてしまったのかを調べてみました

柴田勝家の年表

説明
1522-30?尾張で誕生する。
土豪の出身と思われる。
1551織田信秀が亡くなり、織田信勝に家老として仕える。
1552萱津の戦いで30騎を討ち取る武功を挙げた。
1556織田信勝を後継者とするため織田信長と戦うが、敗れる。(稲生の戦い)
1557織田信勝が再び反旗を翻した時、織田信長に密告した。
??織田信勝が亡くなり、織田信長の家臣となる。
1568織田信長の上洛に従い進軍する。
1570姉川の戦い。
1571比叡山焼き討ち。
1573朝倉の一乗谷城へ攻め込み、朝倉家を滅亡させる。
1575越前49万石、北ノ庄城を与えられる。
1576北陸方面司令官に任命され、前田利家、佐々成政、不破光治が与力となる。
1577上杉謙信と戦うも敗れる。(手取川の戦い)
1581京都馬揃えでは、越前衆を率いて上洛する。
1582本能寺の変で主君・織田信長が亡くなる。
1582清州会議以降、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対立を深める。
お市と結婚する。
1583賤ヶ岳の戦い、北ノ庄の戦いで羽柴秀吉に敗れ、切腹する。
享年62。
歩兵くん
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柴田勝家桶狭間の戦い美濃合戦には出陣していないんです

柴田勝家の相関図

柴田勝家は織田信長の敵だった

柴田勝家は生年や出自が明確ではなく、土豪階層の出身であったと考えられています。若い頃から織田信秀に仕え、織田信長が家督を継ぐ頃にはすでに織田家重臣でした。

歩兵くん
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村を1つ与えられていたようなので、能力は高かったのだと思われます

1551年に織田信秀が亡くなると、三男の織田信勝(信行)に家老として仕えました。

清州城主・織田信友との戦いでは、中条家忠とともに敵方の家老・坂井甚介を討ち取り、翌年の清州城攻めでも三十騎を討ち取る武功を挙げました

その後、主君・織田信勝を織田家の後継者に据えるべく、林秀貞と協力して反信長派の動きを画策し、織田信長の排除を試みました。勝家は1,000兵を率いて稲生の戦いに臨むも敗北し、降伏。しかし、信長と信勝の母・土田御前の嘆願により、助命されました。

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土田御前は信勝のことがかなり好きだったようです

  • 実際に戦って信長との実力差を痛感したこと
  • 信勝が助命されたにもかかわらず再び謀反を企てたこと
  • 信勝が新参家臣を重用して自身を軽んじたこと

などのことから、勝家は信勝を見限り、信長に帰順しました。そして、信勝の謀反計画を信長に密告し、ついに信勝は誅殺されました

柴田勝家は織田信長に従う「鬼柴田」

織田信長に仕えてからの8年間、柴田勝家の動向は詳しくはわかっていません。信長による尾張統一桶狭間の戦い美濃攻めといった主要な戦いにおいても、勝家の名は史料に見られません。

ただし、信長の命により、織田信勝長男・津田信澄つだのぶずみの養育を任されていたと伝えられています。

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信勝の家臣だったことが響いてのかもしれませんね

織田信長足利義昭を奉じて、上洛することになりました。この頃から、柴田勝家の動向が見られるようになり、信長の有名な戦いにはほとんど出陣しています。

合戦
1570金ヶ崎の戦い
1570姉川の戦い
1570石山合戦
1571比叡山焼き討ち
1573槇島城の戦い
1574長島一向一揆
1575長篠の戦い

柴田勝家は上杉謙信にボロ負けした!?

柴田勝家は、織田信長から越前一向一揆の鎮圧を命じられました。越前(福井県)は、隣の加賀(石川県)と同様に、90年もの間一向宗が支配していた地域であり、統治は容易ではありませんでした。

1575年、勝家はついに一揆を平定し、その功績により信長から越前49万石北ノ庄城(福井城)を与えられました。その後は領国経営にも力を注ぎ、領民から慕われる良き領主であったと伝えられています。

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鬼柴田」とともに政治能力も持ち合わせていたんですね

1576年、柴田勝家は北陸方面の統治を任され、前田利家・佐々成政・不破光治の3名(府中三人衆)が与力として配されました。加賀もまた一向宗の根強い地域であったため、信長は統治を安定させるために、有力な武将たちを勝家の与力として配置したと考えられます。

さらに北には越後(新潟県)を領する上杉謙信が控えていました。1577年、謙信は南下して加賀へ侵攻します。

これに対し、織田信長は羽柴秀吉(豊臣秀吉)を援軍として派遣しましたが、勝家と秀吉は軍議の場で意見が対立し、秀吉は独断で撤退してしまいます。その結果、七尾城が陥落し、勝家は手取川の戦いで上杉謙信に大敗を喫することとなりました。

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この半年後に謙信が亡くなるので、勝家はリベンジできずに終わってしまいました

柴田勝家はなぜお市と結婚したのか

佐久間信盛石山合戦の責任を問われ追放されると、柴田勝家は織田家の筆頭家老に昇進。のちの京都馬揃えでは越前隊を率いて参加し、織田家の威勢を天下に示しました。

しかし、1582年に本能寺の変が勃発しました。当時、柴田勝家は上杉方の越中・魚津城(富山県)を攻め落としている最中でした。信長討死の報が届いた頃には、上杉方もすでに本能寺の変を知り、足止めを食らってしまいました。その結果、主君・織田信長の仇討ちは、羽柴秀吉の手にわたりました。

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山崎の戦いの決着がついたのは6月13日

勝家が動き出したのが6月18日です

もともと関係が良好とは言えなかった柴田勝家と豊臣秀吉の仲は、その後の清須会議でさらに悪化します

清須会議は、織田信長の跡継ぎを誰にするかを決める場ではなく、すでに三法師(信長の嫡孫)を後継と定めたうえで、家臣たちの領地配分を協議するための会議でした。

この会議で、勝家は北近江(滋賀県)と長浜城を与えられたのに対し、秀吉は河内(大阪府)・丹波(兵庫県)・山城(京都府)などの要地を手に入れています。織田家筆頭家老であった勝家にとっては、納得しがたい結果であったといえるでしょう。

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次男・織田信雄は尾張(愛知県)、伊賀、南伊勢(三重県)

三男・織田信孝は美濃(岐阜県)を得ています

清須会議の後、織田家の体制は、嫡孫・三法師を頂点に、織田信雄・織田信孝がこれを支え、その下に柴田勝家・豊臣秀吉・池田恒興・丹羽長秀らが補佐として位置づけられました。

このとき、勝家は織田信長の妹であるお市の方と結婚します。これは、清須会議での領地配分に不満を抱いた勝家を宥めるため、秀吉との話し合いによって決められたと伝えられています。

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秀吉と揉めたときに三男・信孝勝家に助けを求めて、勝家を陣営に引き込むためにお市と結婚を仲介させた説もあります

柴田勝家とお市。

柴田勝家は豊臣秀吉に敗れる

豊臣秀吉は、徐々に織田家中での地位を固めていきました。柴田勝家が京都を離れている間に、秀吉は京都・大徳寺で主君・織田信長の葬儀を執り行います。喪主は秀吉の養子であり、信長の四男・織田秀勝でした。これにより、世間からは秀勝と秀吉が織田家を主導しているように映りました。

これに対し、勝家は織田信孝滝川一益と結んで対抗を試みましたが、依然として情勢は秀吉優位のままでした。

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秀吉は上杉景勝にも協力の手を回していたようです

やがて、柴田勝家と豊臣秀吉の間で賤ヶ岳の戦いが勃発。両軍はともに堅固な布陣を敷き、先に動けば不利になるという緊張状態が続いていました。そんな中、柴田方に属する織田信孝滝川一益が手を組み、岐阜方面から秀吉軍の背後を突こうと動きます。

挟撃されることを恐れた秀吉は、本隊の一部を残して岐阜方面へ進軍しました。これを見た柴田方の佐久間盛政が好機と判断し、前線に出撃して中川清秀を討ち取り、高山右近を退却させる戦果を挙げました。

しかし、秀吉は電火のごとく賤ヶ岳に戻り(美濃大返し)、与力だった前田利家金森長近が退却してしまい、形勢が逆転しました。秀吉軍は勝家軍に襲いかかり、勝家は北ノ庄城に退却。その後、勝家は妻・お市とともに北ノ庄城で自害して亡くなりました。

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秀吉が織田家で台頭するきっかけとなった合戦ですね

柴田勝家の家紋

柴田勝家の家紋は「二つ雁金ふたつかりがね」または「丸に二つ雁金」です。勝家の代から使用されたといわれています。雁は古来より「幸運を運ぶ鳥」とされ、上の雁は口を開けているとも伝わりますが、詳細については不明です

柴田勝家の甲冑

柴田勝家の兜には二枚の飾り板が付けられていたといわれます。

勝家の刀は「にっかり青江」と呼ばれ、柴田勝家→丹羽長秀→豊臣秀吉→豊臣秀頼→京極忠高と渡り、讃岐丸亀藩京極家に代々伝わり、現在は丸亀市に保管されています。

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名前の由来は「にっかり笑う女の幽霊」を斬ったからといわれています

柴田勝家の兜。

柴田勝家の城

長光寺城

長光寺城は、柴田勝家が初めて与えられた城として知られています。

元亀元年(1570年)、勝家は六角義賢の軍勢により長光寺城を包囲されました。籠城を続けるうちに柴田軍は次第に疲弊していったが、勝家はこのままでは敗北必至と悟り、城内にあった貴重な水瓶を自ら打ち割りました。そして、「こんなものがあるから気が緩むのだ」と叱咤し、兵の士気を奮い立たせたといいいます。

その勢いのまま夜明けに六角軍へ奇襲をかけ、見事これを撃破。敵軍に大損害を与え、八百余の首級を挙げたと伝えられています。

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勝家は信長から感状を与えられたようです

長光寺城の戦い。「瓶割り柴田」の異名がついたのはこのとき。

北ノ庄城(福井城)

北ノ庄城(福井城)は、柴田勝家が居城とした城として最もよく知られています。

1573年、柴田勝家は朝倉義景を滅ぼした功績により、織田信長から褒美として越前国北ノ庄を与えられました。1575年、この地に北ノ庄城を築きました。城は二重の堀を備え、天守は七層に及んだといわれています。その規模は織田信長の安土城にも匹敵し、城下町の広さは安土城の倍にも達したと伝えられています。

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この城下町がいまの福井市の原型ですね

1583年、北ノ庄城の戦いで柴田勝家は豊臣秀吉に敗れ、城は落城しました。勝家が築いた北ノ庄城は、わずか8年でその姿を消すことになります。

その後、1601年に徳川家康の次男・結城秀康がこの地に新たな城を築き、「福井城」と名を改めました。

福井城。現在は福井県庁が立っている。

玄蕃尾城

玄蕃尾城は、柴田勝家賤ヶ岳の戦いの際に「本陣」を構えた城です。しかし、豊臣秀吉の反撃を受けて敗走し、勝家は北ノ庄城へと退きました。

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