
豊臣秀吉の妹は朝日姫ですね
戦国乱世に翻弄された女性ですね

わしの妹じゃ
訳あって家康の正室としたんじゃ

今回は豊臣兄弟でも大活躍間違いなしの
豊臣秀吉の妹・朝日姫についてみていきましょう
大河ドラマの主人公・豊臣秀長の生涯はこちら↓
朝日姫の年表
年 | 説明 |
---|---|
1543 | なか(大政所)の次女として生まれる。 |
?? | 尾張の農民・佐治日向守に嫁ぐ。 (織田家臣・副田吉成に嫁いだ説も) |
1586 | 兄・豊臣秀吉の命により、夫と離縁する。 徳川家康の正室となる。 |
1586 | なか(大政所)が徳川の人質となり再会する。 |
1589 | 病を患う。 |
1590 | 享年48。 |


朝日姫は穏やかに暮らしていたのに、
秀吉の手で突然政治の表舞台に立たされることになったのですね
朝日姫の姉の壮絶な生涯はこちら↓
朝日姫は豊臣秀吉の妹
朝日姫は1543年、なか(大政所)と竹阿弥との間に生まれました。姉に日秀尼、兄に豊臣秀吉と豊臣秀長がいます。
結婚時期は明らかではありませんが、尾張(愛知県)の農民に嫁いだと伝えられています。その夫は、のちに「佐治日向守」と名乗ったとされますが、織田家臣・副田吉成が夫であったとする説もあります。


朝日姫の前半生についてはよくわかっていません、、、
また、朝日姫と佐治日向守との間には子はいませんが、仲良く暮らしていたようです。


大河ドラマ・豊臣兄弟のキャスト一覧はこちら↓
朝日姫は徳川家康の正室
兄・豊臣秀吉が台頭し、徳川家康との間で小牧・長久手の戦いが勃発しました。戦いは膠着状態となり、最終的に両者は和睦に至ります。
その後、家康との関係を強化したい秀吉は、妹の朝日姫を家康に嫁がせました。
家康は1579年に正室・築山殿を失って以降、側室はいたものの正室を迎えていませんでした。
秀吉はそこに目をつけました。
妹を家康に嫁がせることで、自らの政権基盤を固めるとともに、家康を妹婿として取り込み、豊臣政権に組み込もうとしたのです。


朝日姫は秀吉の天下取りに巻き込まれてしまった訳ですね


秀吉は政略結婚のため、妹・朝日姫を強引に夫・佐治日向守と離縁させ、その慰謝料として500石(約1億円)を与えたと伝えられています。
佐治日向守については、その後悔しさから自害したとも、隠居したとも言われていますが、真相は定かではありません。
こうして、44歳の朝日姫と45歳の徳川家康という、当時としては高齢の新夫婦が誕生しました。


秀吉は陽気で人たらしのイメージがありますが
冷徹なこともたくさんしていますよね
豊臣秀吉が老害化したのは孤独さから↓
徳川家康の嫁としての朝日姫
豊臣秀吉は、妹・朝日姫を徳川家康に嫁がせることで、家康に自身への服従を求めていました。
しかし、家康は動きませんでした。
そこで秀吉は、母・なか(大政所)を人質として家康のもとへ送り込むという強硬策に出ます。これにはさすがの家康も重い腰をあげ、最終的に秀吉との間で和議が成立しました。


朝日姫は自分の力では上洛しなかったことが悲しかったでしょうね
その後、朝日姫は病を患った母・大政所の見舞いのため、京都を訪れています。
しかし、1589年頃から自身も病に伏すようになり、1590年、48歳でこの世を去りました。徳川家康はその死を悼み、朝日姫を京都・東福寺に丁重に葬ったと伝えられています。
家康の人質となった大政所の解説↓
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