
大河ドラマ・豊臣兄弟の登場人物の藤堂高虎は
主君を7度変えたいわれる武将ですね

戦国時代は1人の主君に仕えることが主流じゃったから
高虎のような生き方は珍しかったんじゃ

今回は藤堂高虎の主君一覧について詳しくみていきましょう
藤堂高虎の城一覧はこちら↓
藤堂高虎の主君の年表
主君 | 年 | 説明 |
---|---|---|
浅井長政 | 1556-1573 | 若年期は地元の浅井長政に仕官。 姉川の戦いで初陣を飾り、武功を挙げる。 |
阿閉貞征 | 1573-1574 | 浅井家滅亡により浅井旧臣であった阿閉貞征に仕官。 |
磯野員昌 | 1574-1575 | 浅井旧臣の磯野員昌に80石で仕えた。 |
織田信澄 | 1575-1576 | 織田信長の甥・信澄に仕えるも、恩賞が少なく長続きしなかった。 |
豊臣秀長 | 1576-1591 | 旧浅井領を治めていた豊臣秀吉の弟・秀長に300石で仕官。 |
豊臣秀保 | 1591-1595 | 豊臣秀長の後継者・秀保に仕えるも早世してしまう。 |
豊臣秀吉 | 1595-1598 | 秀保の死後、高野山にのぼったが、豊臣秀吉に説得されて仕官。 慶長の役で武功を挙げ、1万石から8万石となる。 |
徳川家康 | 1598-1616 | 豊臣秀吉の死後に家康に接近し、徳川家の重臣となる。 |
徳川秀忠 | 1616-1623 | 家康の死後に仕える。秀忠の五女・和子の入台に尽力した。 |
徳川家光 | 1623-1630 | 秀忠の死後に仕える。 |


こう見ると
主君が10回も変わっていますね
藤堂高虎の城一覧はこちら↓
藤堂高虎は豊臣秀長に15年仕えた


藤堂高虎は主君が10回も変わりましたが
豊臣秀長には15年も仕えていましたね
なにか理由でもあるのでしょうか?
藤堂高虎は主君を何度も変えたために「不忠者」とみなされることもありますが、実際には忠義に厚い武将でした。
高虎が豊臣秀長と出会ったのは、秀吉が近江長浜に城を構えたことがきっかけです。近江国出身だった高虎は、その縁で秀長に仕官しました。


秀長は兄・秀吉を支え、政治や軍事だけでなく、武将や官僚たちの調整役も一手に担うなど、豊臣家をまとめる中心的存在でした。その仕事は非常に多岐にわたります。


戦だけでも以下の通りです
・三木城
・但馬国一揆
・伊勢攻略
・亀山城攻略
・賤ヶ岳の戦い
・雑賀征伐
・四国征伐
・九州征伐
また、豊臣秀長のもとで、藤堂高虎は築城技術を習得していきました。
秀長が紀伊国を与えられた後、高虎は築城のための材木を集める役目を任され、この頃から築城に関するさまざまな実務を経験していたと考えられます。
その結果、1587年には紀州粉河城で2万石を与えられ、城主となりました。
藤堂高虎は豊臣秀長のもとで合戦に築城に大活躍していた
藤堂高虎の豊臣秀長への忠義
豊臣秀長の養子を引き取る
藤堂高虎が主君の豊臣秀長にみせた忠義を紹介します。
豊臣秀長は跡継ぎがおらず、「仙丸」という養子を取っていました。
仙丸は丹羽長秀の三男で、本能寺の変の後に豊臣秀吉が丹羽長秀を取り込むために、秀長の三男にしたと考えられます。


しかし、1591年に秀長の跡を継ぐのは甥の豊臣秀保にすると急遽、秀吉は舵を変えたのでした。
これにより、養子の仙丸の豊臣家での立場を失いました。この時、仙丸は9歳で、今後の状況に不安で仕方なかったでしょう。
そこで当時、跡継ぎのいなかった高虎が「仙丸様を養子にお迎えしたい」と秀長に申し出、どの方面も丸く収まりました。


この仙丸は後に藤堂高吉となり
さらなる悲劇に巻き込まれることになります
豊臣秀保のために出家!?
1591年に豊臣秀長が亡くなり、豊臣秀保が跡を継ぐと、藤堂高虎はこれに従いました。高虎は、まだ幼い秀保に代わって朝鮮へ出陣しています。
しかし1595年、秀保はわずか17歳で急死します。
その死の真相は不明で、実兄の豊臣秀次の切腹事件との可能性が示唆されています。秀吉は秀保の死を悼むこともなく、葬儀を密葬で済ませました。
高虎にとっては、若い頃から各地を渡り歩き、ようやく腰を落ち着けた先で秀長、秀保という主君を相次いで失ったのですから、意気消沈するのも無理はありません。その後、高野山に登り出家しました。


出家したことから高虎の忠誠心が感じられますね
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