
本能寺の変は戦国史上最大の謀反やなー

明智光秀が謀反をおこして、主君である織田信長公を討った事件じゃな

けれど光秀の動機が謎なんだよなー
どうして本能寺の変が起きたかみてみよう!!
本能寺の変の背景
「尾張の大うつけ」といわれた織田信長は、最大のライバルである信州の武田家を滅ぼし、大坂の石山本願寺をしりぞけ、中国地方の毛利家とは有利に戦が進んでいる状況。つまり信長の天下統一への道は順調に進んでいました。
さらに信長は琵琶湖の辺りに、豪華絢爛な高層天守の安土城を築いて自らの権威を見せつけていました。


信長公の天下はもうそこまで来ていたんじゃ
わしはそれを手伝うため、中国地方の毛利家を攻めておったんじゃ
天下統一を目前とした信長はみずから中国攻めに出陣するため京都に立ち寄りました。京都では少数の部下のみをつれて本能寺に宿泊したといわれています。そこで信長は公家や商人たちと宴を催して旅の疲れを癒やしていました。


このころ戦国武将が公家や商人と遊ぶことは一般的だったみたいやな


信長は「敦盛」という舞が好きだったといわれている
(太平記英勇伝壹、落合芳幾作)
信長の夢儚く散る!!
本能寺の変が起きた前日、織田家の重臣は全国各地に散らばっていました。重臣柴田勝家は北陸地方で上杉家と戦、滝川一益は関東で北条攻め、信長の三男信孝と丹羽長秀は四国地方の長宗我部攻め、徳川家康は堺で買い物をしているという情勢でした。


重臣たちが各地に散らばっていて
光秀にとって信長を討つ絶好の機会やったんやな


織田家の重臣で手が空いているのは明智光秀のみ。
そして光秀は信長の命により、秀吉の中国攻めを手伝うようにいわれて中国地方にむけて出陣しました。
居城の亀山城(京都府)をでた光秀は老ノ坂に差し掛かると、
有名なセリフ「敵は本能寺にあり」
と宣言して京都に進軍します。


「敵は本能寺にあり」は後世の創作である可能性が高いで
そして光秀は1万3千の軍勢を率いて信長のいる本能寺を取り囲んだのでした。対する信長はわずか100人ほどの家来しかいません。
信長は小姓の森蘭丸から光秀が裏切ったようですときくと「是非に及ばず」と答え、光秀の軍に応戦します。
ところが圧倒的な兵力差に歯が立たず、本能寺に火を放って自害しました。


信長公は自身の首が光秀のもとに渡らないように火を放ったんじゃ


首が見つかれば政権が完全に光秀のものになってしまうもんな
探しても首が見つからないことに腹をたてたといわれているぞ
また信長の嫡男信忠も近くの妙覚寺にいましたが、光秀の軍に攻められ自害しました。


信忠殿は逃げようと思えば逃げれたのになー
もったいないのー


本能寺の変の謎
ではなぜ光秀は裏切ったのでしょうか?光秀が謀反を起こした動機をいくつか紹介します。
怨恨説、光秀が日頃から信長のことを恨んでいた
野望説、光秀が単に下剋上を起こして天下を取りたいと思って謀反を起こした説
恐怖説、信長は役に立たない家臣はどんどん切り捨てており、自分も切り捨てられるのではないかと恐れた光秀が謀反を起こした説
黒幕朝廷説、天皇の天下を取り戻すために光秀を利用した説
黒幕豊臣秀吉説、秀吉が光秀をそそのかして謀反を起こさせた説
黒幕将軍説、近年足利義昭と明智光秀との関連を示唆する文章がみつかり浮上した説
長宗我部説、光秀と関係の深い長宗我部家が信長の侵攻を恐れて光秀に謀反を起こさせた説
たくさんの説がありますが、結局のところどれも説得力に欠けはっきりしておらず、光秀は自身の家臣にも信長を討った理由を話しておりません。
光秀が信長を討つ大義名分を家臣に伝えていれば、各地の信長の敵対勢力を味方につけて光秀は天下を狙えたはずです。
にもかかわらず光秀が信長の警備が手薄になったときに、急に謀反を起こしたのが疑問に残るところです。
光秀は日頃から信長をうらんでいて、今しか信長を討つときがないと思い立って謀反を起こしたのではないかと思います。


戦国時代といえど好き放題に合戦をしていいものではないんじゃ
大義名分が必要じゃ


光秀の謀反を裏で手をひいていたといわれる天皇
(京都・泉涌寺蔵)
まとめ
本能寺の変は日本を揺るがす大事件でした。本能寺の変の後は明智光秀を大急ぎで討ち取った豊臣秀吉が天下統一を成し遂げるのでした。


光秀の「三日天下」とかいわれるけど
実際には十日くらいは一時的に天下人だったぞ


光秀は生き延びて天海という僧になったという話があるそうじゃ


信長が本能寺で亡くならずに生きていたら、スペインやポルトガルと貿易をする国になったのかな?


(絵本太閤記)
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