
豊臣秀頼は天下人・豊臣秀吉の跡継ぎだな

秀頼が生まれるのはあまりにも遅すぎたのー
もっと早く生まれておれば歴史は変わったのになー

生まれるのが早ければ豊臣家は存続していたかもしれないのかー
それでは豊臣秀頼の生涯をみていこう!
豊臣秀頼の年表




二条城で秀頼と家康が会見したとき、
家康は秀頼の立派さに脅威を感じたみたい


また、秀頼は母・茶々(淀殿)の反対を押し切って会見を開いたんじゃ


豊臣秀頼の相関図




秀頼が豊臣家の当主だったけど
実権を握っていたのは母の淀殿だな


茶々は徳川家に従うことをとても嫌ったからのー
秀頼がもっと意見したら徳川家と豊臣家は共存していたやもしれんな


豊臣秀頼の誕生
豊臣秀頼は1593年、豊臣秀吉の子として誕生しました。母は織田信長の姪にあたる淀殿。幼名は拾といい、捨てられ拾われた子は健康に育つという迷信から名付けられました。
また、秀頼が生まれた頃、秀吉の第一子・鶴松が夭折し、跡継ぎは甥の豊臣秀次となっていました。そんな中で生まれた秀頼は秀吉にとって目に入れても痛くない存在だったでしょう。


秀吉が長浜城主のとき、石松丸という子をもうけたという話もあるよ


没落してゆく豊臣政権
秀吉の跡継ぎとして既に関白の職についていた秀次と秀頼の関係を調整するため、秀吉は秀頼と秀次の娘を婚約させました。これにより、秀吉から秀次、秀頼への政権交代を模索。
ところが、秀吉は秀次に謀反の罪があるとして切腹を命じたのでした。しかも、秀次だけではなく、側室や待女までもが公開処刑されてしまいます。


普通は謀反の罪に問われると斬首されるけど
秀次は切腹処分になるのは変だな
さらに秀吉は秀頼が跡を継ぎやすいように、五大老と五奉行を組織しました。五大老には前田利家や毛利輝元などの有力大名がいましたが、筆頭は徳川家康。秀吉は家康の力を脅威に感じていましたが、削ぎ落とすことが出来ずになくなってしまいました。この時秀頼はわずか5歳です。


秀吉は亡くなる直前に
秀頼が成人するまで政治は徳川家康に託してしもうたんじゃ
秀吉が亡くなった翌年、秀頼の後見人であった前田利家も亡くなります。これにより、豊臣の家臣達が文治派と武断派に分かれて対立。ここに家康がつけ入り、関ヶ原の戦いを起こしました。そして西軍が敗れたことにより、秀頼はわずか65万石の大名となってしまいます。


関ヶ原の戦いの決め手となったのは小早川秀秋やな、
秀秋は秀頼が生まれて以降、秀吉から冷遇されていたから裏切ったのかもしれないなー


決戦!!大坂の陣!!
関ヶ原の戦い後、豊臣政権は没落し、徳川家康が江戸幕府を開きました。そして、2年後に徳川秀忠に将軍を譲って、徳川家の地位を不動のものとします。


秀忠に将軍職を譲ったけど、実権は家康が握っていたよ
ところが、家康は豊臣家と徳川家の間を取り持つため、孫の千姫を秀頼のもとへ嫁がせます。このとき秀頼は10歳で、千姫は7歳でした。
また、家康は豊臣家を公家のように扱いますが、大坂城には秀吉から受け継がれた莫大な資金があるため危険視していました。そこで家康は秀頼に寺社を作らせて、資金を散財させる作戦に打って出ます。


秀頼は公家風の教育を受けて育っていて、書には精通していたよ
そうして、豊臣家によって寺が次々と再建されました。しかし、家康は再建した方広寺の鐘名に不適切な言葉があると指摘。家康は秀頼に対して大坂城の退城を要請しました。
とはいえ豊臣家が大坂城から去ることなど受け入れるはずもなく、豊臣方と徳川方で対立が勃発。秀頼は各地の浪人衆を集めて、徳川軍を大坂城で迎えうちました。


不適切な言葉とは「国家安康」、「君臣豊楽」のことじゃな
これはいいがかりとも言えるが、
天下が徳川家にあるのだから気を付けていなかったのも悪いのー
大坂の陣では、真田幸村や後藤又兵衛の活躍があり、一時は講和を結んで休戦していました。ところが、徳川軍が再び攻め込み、秀頼は母・淀殿とともに自刃し、長男の国松も処刑されて豊臣家は滅亡しました。


秀頼は真田幸村につれられて、鹿児島県の方まで逃げていったという説もあるぞ


まとめ
豊臣秀頼は天下人・豊臣秀頼の子として生まれ、溺愛されながら育ちました。しかし、秀吉が亡くなると、徳川家康に政権を奪われてしまいます。結局、政権を取り返せず豊臣家は滅亡しました。


秀頼は生まれる時代が悪かったとしか言いようがないなー
二条城会見で家康が秀頼に脅威を覚えたのだから、秀頼は決して盆暗な武将ではないだろうなー


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