
最後の最後で天下をとった徳川家康!
「我慢の人」で有名だな

家康はわしと同盟を結び、忠義を尽くしてくれたんじゃ
その「律儀」はすばらしいものじゃぞ

同時に、家康は「たぬき親父」といわれているなー
それでは徳川家康の生涯をみていこう!
徳川家康の年表




人質生活から天下を取るまで本当に長かっただろうなー


家康は健康に気をつけていたことで有名じゃが
わしも日頃から鍛錬を怠らず鍛えておったんじゃ


持ち合わせていた。(大阪城天守閣蔵)
徳川家康の相関図




徳川四天王の他にも優秀な家臣がたくさんいたんだよなー


家康は家臣の意見をしっかり聞けるのがすごいところじゃな


(松平西福寺蔵)
徳川家康の誕生
徳川家康は1542年、三河(愛知県)に松平広忠の長男として生まれました。幼少期の頃の名前は「竹千代」。家康が生まれた頃、松平家は今川義元と織田信秀という強敵に囲まれていました。そのため、力の弱い松平家は今川家へ家康を人質として献上することになります。


わしが「尾張の大うつけ」と呼ばれた頃の話じゃ
ところが、その道中で織田家にさらわれてしまい、家康は織田家で人質生活をすることに。そしてその2年後、今川家の人質となり、人質のまま元服を迎えました。その後、義元の勧めにより義元の養女・築山と結婚します。


完全に今川義元のいいなりやなー
この時家康は天下を取れるとはおもってもいなかっただろうな


武将としての才能を備えていた。(歌川国芳)
悲願の三河平定!!
今川義元は上洛すべく京都へ進軍していると、織田信長の奇襲攻撃により討ち取られてしまいました。これを好機とみた家康は、今川家の家臣であるにも関わらず、義元が敗れたことを知ると今川家から独立を果たします。
そして2年後信長と面会すると、清洲同盟を結びました。


今川家からの独立を記念して
名前を「家康」に改名したんじゃ
さらに三河一向一揆を3年以上かけて鎮圧することに成功し、名前を「松平」から「徳川」へと改めました。


この一揆では家臣の大半が一揆側についてしまうという苦しい状況だったんだよ


入れた。秀吉や家康によって禁止されている。
(三宝寺所蔵)
信長とともに!!
形の上では信長と同盟を結んでいましたが、実際には信長の支配下にありました。信長の命令により、姉川の戦いに参戦して浅井朝倉連合軍と合戦を繰り広げています。
ところが、武田信玄が上洛のため家康の領地に侵攻してきても、信長はほとんど助けを出してはくれません。これにより徳川軍は惨敗し、家康は命からがら居城の浜松城まで逃げ込むはめに陥っています。


家康が信玄に攻められ怯えて、
脱糞した合戦じゃ
また家康の長男・信康が武田家に内通しているという疑いを信長にかけられると、信長の許しを得るために信康と正室の築山に切腹を命じました。


家康と信長さんは友好な関係かと思っていたけど
家臣のような扱いやったんやなー


家康が家臣に書かせた。(徳川美術館所蔵)
豊臣政権時代
本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれたとき、家康は大坂の堺で商人と茶会を開いていました。このとき家康には家臣が30人ほどしかおらず、光秀の大軍に襲撃されればひとたまりもない状況。
そこで、家康は本多忠勝や井伊直政などの家臣に諫言されて、三河に帰国することを決意。本能寺の変によって、落武者狩りを狙う武装した農民などを避けながら、なんとか伊賀(三重県)を越えて三河に帰国しました。


この伊賀越えはなかったという説もあるで


さらに家康は本能寺の変を起こすよう
光秀をそそのかした説もあるよ
本能寺の変後、いち早く京都に駆けつけた豊臣秀吉が明智光秀を討ち取りました。そして清州会議で織田家をのっとり、織田家の重臣・柴田勝家を滅ぼします。
このことを不快に思った信長の次男・織田信雄は家康に助けを求め、秀吉との間で合戦が勃発。豊臣軍10万の兵力に対し、徳川軍は1万6千とかなり少ないにも関わらず、徳川軍の奮戦によって連戦連勝を重ねました。
ところが、信雄は急に合戦を中止したため、この小牧長久手の戦いは終わります。


信雄はどうしようもないやつじゃた
家臣からも呆れられ、無能と思われておったわ
その後、秀吉は家康を服従させようと接近。秀吉の妹を家康の後妻として差し出します。そして秀吉が関東の大名・北条家を滅ぼすと、家康は大坂城で秀吉と謁見。家康の故郷である三河を没収され、関東へ移封させられしまいます。


家康もノリに乗っている秀吉には逆らえなかったんやろな


我慢の末に勝ち取った天下人の座!!
秀吉の命により関東に移されると、領地経営や軍制改革を行なって軍事力を蓄えいきました。
さらに、豊臣政権下でも力をつけて五大老に任命され、250万石の大名となっています。


秀吉は家康の軍事力を削ぐために関東に移したんだろうけど
家康はそれでも力を蓄えたんだなー
秀吉が亡くなると、天下取りのため動きはじめます。禁止されていた大名同士の結婚を破って、福島正則や伊達政宗などの大名と政略結婚を行いました。
石田三成はそんな家康の勝手な行動を許せず、立ち上がります。ところが、三成の動きを読んでいた家康は三成と仲が悪かった加藤清正や福島正則などを東軍に引き込んで、対立させました。
また、上杉景勝に無理やり豊臣家への謀反の疑いをかけて、会津討伐を開始。ついに痺れを切らした石田三成が挙兵し、関ヶ原の戦いが起こりました。
家康は関ヶ原の戦いのため、事前にたくさんの武将へ手紙を送って東軍に寝返るよう根回しをしていました。このことが功を奏して小早川秀秋が寝返り、家康は関ヶ原の戦いで勝利を収めます。


家康は我慢強いことで有名だけど
戦場で思うようにいかないことが起きると爪をかみ続けたらしいよ
関ケ原の戦いのときも小早川秀秋がなかなか裏切らないから腹を立てていたみたいだし


決着の時!!
関ヶ原の戦いに勝利した家康は大規模な戦後処理を行い、諸大名の領地を細く指定。
さらに朝廷から征夷大将軍に任命されると江戸幕府を開きます。


豊臣秀吉は朝廷と関係が近い関白となったけど
家康は朝廷からの干渉を避けるために征夷大将軍となったんだな
しかし、家康は西国の武将を監視するため、ほとんどの時間を京都の伏見城で過ごしました。さらに諸大名たちに力を蓄えさせないため、江戸城の建設に取り組ませ、大きな城下町を整備します。


家康は大名たちのコントロールが上手いな
江戸幕府が260年も続いた秘訣じゃ
また家康は2年で征夷大将軍を辞め、三男の徳川秀忠に譲り、駿府城に移ります。とはいえ、政権は家康が握っていました。


征夷大将軍を秀忠に譲ることで天下が徳川にあることを示したなー
加藤清正の勧めで、家康が豊臣秀頼と二条城で謁見すると、秀頼が思った以上にしっかりしていたことに驚きます。
さらに豊臣家は大金をはたいて各地の浪人を引き込んでおり、伊達政宗が未だに天下取りの野望を捨てていませんでした。
家康はこれらのことを懸念して、方広寺の鐘が徳川家康を侮辱するものだと言いがかりをつけて、豊臣家に宣戦布告。


家康は安心して亡くなれるように
豊臣家をなんとしてでもつぶしておきたかったんじゃな
そして家康は20万もの軍勢を率いて、大坂城へ総攻撃を開始。徳川軍が有利かと思われましたが、豊臣方の武将・真田幸村の活躍により休戦へ持ち込まれてしまいます。
秀頼との休戦条約で、大坂城の堀を全て埋めることに成功。再び大坂城へ侵攻して勝利しました。家康は豊臣家という最大の憂いを払拭して、大坂の陣の翌年に亡くなりました。


家康は鯛の天ぷらにあたって亡くなったというけど、本当かな?


まとめ
徳川家康はがまんにがまんを重ねて天下人の座を掴み取りました。
徳川家康はなかなか人気戦国武将ランキングで上位にランクインしません。これは信長のような革新的な政策をせず、秀吉のように派手でもないからでしょうか?


家康は堅実に努力を重ねて、天下をとったんやな


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