
今回は戦いの拠点であり
統治の象徴である城を築いた名人たちをみていこう!

城が脆ければすぐに合戦で破れてしまうし
とても重要なものなんじゃ

だから築城名人は引く手あまただったよ
それでは築城名人ランキングをみていこう!
第5位
馬場信春
武田三代にわたって仕えた馬場信春。生涯70回を越える合戦に出陣しましたが、長篠の戦いで討ち死にするまでかすり傷一つ負わなかった猛将です。武田信玄の軍師・山本勘助から築城の技術を学び、武田軍が奪いとった城をどんどん改築していいきました。


信春殿の築城の技術は甲州流築城術といわれ
我が徳川家でも取り入れた手法なんじゃ


織田信長も称賛した。(恵林寺蔵)
第4位
明智光秀
織田信長の重臣でありながら、謀反を起こして信長を討ち取った明智光秀。宣教師ルイス・フロイスは、「築城のことに造詣深く、優れた建築手腕の持ち主」と記述しています。光秀は信長の居城・安土城に先立って、天守をもつ坂本城を築いていました。


光秀は城下町を整備して、領民を愛して善政を敷いたといわれているよ


生き延びて僧・天海になったという。(本徳寺蔵)
第3位
黒田官兵衛
豊臣秀吉の軍師・黒田官兵衛。軍師として名高い官兵衛も実は築城の名人でした。官兵衛は城と城下町を一体化させ、城そのものを経済の中心地としました。また、川や海などの自然を生かし物流の拠点とし、堀には水を引き込みました。


官兵衛は世界遺産としても知られる姫路城の城主だったよ


勘兵衛は文化人の顔をもっておったから
造形美に富んだ城じゃった


(福岡市博物館蔵)
第2位
加藤清正
豊臣秀吉の子飼い武将であり、合戦で数々の武功をあげた加藤清正。清正は築城の名人として知られ、熊本城や名護屋城、江戸城の築城に関わっています。清正の城は籠城戦に備えた防御しやすい特徴があります。また、武者返しといわれる石垣の反りが大きいのも特徴的です。


まさに戦いのための城ってかんじやなー
清正の集大成といえる城が熊本城です。高い石垣が築かれ、籠城の備えとして大量の備蓄が用意されていました。また清正は治水の神様と呼ばれており、城内には120もの井戸があったといいます。


清正が熊本城を築いてから300年後に起こった西南戦争では、
西郷隆盛は城を落とせず、「清正公に負けた」と言ったみたい


痔に悩まされていた。(浄池院)
第1位
藤堂高虎は浅井長政や豊臣秀長、徳川家康など、主君を生涯10回も変えた武将。高虎が築いた城は、今治城、宇和島城、伊賀上野城など生涯35もの城を築き、築城名人の名をほしいままにしました。


江戸城の普請にも関わったんじゃ
高虎が本格的に城作りに励むようになったのは、豊臣秀長に仕えた頃です。この頃には、豊臣秀吉によってほとんど天下統一が成し遂げられていました。そのため、高虎は戦いのための城ではなく、太平の世を見据えた政治の拠点として使いやすい城作りを心がけました。
とはいえ、敵からの侵入をふせぐため、石垣を高く積まれ、堀の幅も50m近くあるものもあります。また、画期的な築城方法を考えつき、層塔型天守といわれる上階を下階よりも小さく積み上げることで強度の高い天守を築きました。


従来の城は作り上げるのに時間がかかる割には強度がなかったけど
高虎の城は手間もかからない頑丈な城だったんだー


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