
仙石秀久は豊臣秀吉に古くから仕えていた武将だけど
合戦で失敗して改易された武将やな

じゃが、秀久は合戦で活躍して大名に返り咲いたんじゃー

戦国一波瀾万丈な生涯を送った仙石秀久についてみていこう!
仙石秀久の年表




秀久は小諸藩主となると、領内の整備や開拓に勤しんだよ


じゃが、改革の激しさから逃げ出してしまう農民も多くいたんじゃ


仙石秀久の相関図




秀久は三英傑に仕えた武将なんやなー


信長殿から永楽紋銭の使用を認められておるしのー


仙石秀久の誕生
仙石秀久は1552年、美濃(岐阜県)に仙石久盛の四男として生まれました。仙石家は藤原氏の血を引いており、由緒正しき名門家であり、美濃の土岐一族に仕えていました。土岐家が没落すると斎藤家に出仕しています。秀久は四男であってため、幼い頃に萩原家の養子となっていました。ところが、斎藤家と織田家との抗争により、兄達が相次いで亡くなると、仙石家の家督が秀久にまわってきます。


土岐一族は美濃の守護大名
家臣だった斎藤道三に滅ぼされたなー


出世街道!!
主君・斎藤龍興が織田信長に敗れると、秀久は落ち延びて織田家に出奔。信長は秀久の顔つきをみるなり、風貌が勇ましいと気に入り家臣としました。そして、豊臣秀吉の寄騎へと命じます。


秀久は最古参の家臣として
豊臣秀吉から寵愛を受けていたみたいやな
姉川の戦いでは、浅井家の家臣・山崎新平を討ち取るなどの活躍をみせます。秀吉が長浜城の城主となると、1000石を与えられています。その後、秀吉に従って中国攻めに出陣し、5000石まで加増されました。


秀久は中国攻めの際に荒廃した有馬温泉を整備したんじゃ
本能寺の変により織田信長が亡くなると、秀吉は明智光秀の討伐を敢行。このとき秀久は反乱する淡路島の豪族を押さえつけていました。そして、秀吉と柴田勝家の間で賤ヶ岳の戦いが勃発すると、秀久は勝家に味方した長宗我部元親の抑えを任せられています。ところが、四国をほぼ手中におさめた長宗我部軍は強力で、秀久は苦戦していました。
秀吉は柴田勝家や紀伊(和歌山県)の雑賀衆などの敵対勢力を制圧し、いよいよ大軍で四国攻めにうってでます。このときに秀久は喜岡城などを落城させるなどの活躍をみせ、讃岐(香川県)10万石の大名にまで出世を果たしました。


秀久は順調に出世して、ついに国持大名となったんやな


大大大失敗!
四国を平定した豊臣秀吉は九州征伐に取り掛かります。臣従して間もない長宗我部家に先陣を務めさせ、秀久は四国勢を指揮官に任命されました。四国勢は豊臣家に臣従して間もないため、結束力が、ありませんでした。そこで秀吉は豊臣本隊が到着するまで待機するよう秀久に命じていました。


豊臣軍は6000で、島津軍は10000と兵力的にも不利な状況だったんじゃ
しかし、秀久は戦功をあげたい焦りから独断で出撃。長宗我部元親らの忠告を無視して戸次川を渡ろうとしたところ、島津軍のお家芸・釣りの伏せ戦法に引っかかってしまいます。これにより、豊臣軍は大混乱に陥り讃岐まで逃亡。このことを聞いた秀吉は大激怒し、秀久を高野山へと追放されてしまいます。


この戦いで、長宗我部信親と十河存保は討ち死に
秀久は本当に酷いなー


四国勢の大将にも関わらず
ひとり逃げかえる醜態から「三国一の臆病者」といわれたんじゃ
豊臣秀吉が天下統一の総仕上げとして小田原征伐の号令を全国に発します。このとき、秀久は高野山に追放されていたものの、旧臣を集めて舞い戻り、徳川家康に陣借りを願いでて出陣しました。


陣借りとは自費で手勢を率いて戦に参戦することやな、
前田利家も陣借りで織田信長に仕えたもんな
戦場にきた秀久はあまりに奇抜で、陣羽織に無数の鈴を縫い込み、動くだけでジャラジャラと音が鳴り響く仕掛けを施しました。目立つことで敵を寄せつけ、次々と首を取っていってきました。派手好きの秀吉は秀久のパフォーマンスを面白がり、信濃小諸(長野県)5万石の大名へと復帰を許します。


秀久は鈴鳴り武者と呼ばれ、汚名返上したんやな
豊臣秀吉が亡くなると、陣借りのお礼から徳川家康に味方します。そして徳川秀忠に従って上田合戦に参陣。ところが、真田昌幸の天才的な軍略により徳川軍はかなり手間取ってしまいます。そのため、秀忠は本戦の関ヶ原の戦いに大幅に遅参。家康の怒りを買ってしまいました。そこで家康の厳しい叱責から秀忠をかばい続け、2人の関係を取りなします。このことを大変感謝した秀忠は秀久を重用するようになり、信濃小諸藩の初代藩主に任命されました。


秀忠からの信頼はとても厚くて、秀忠付という役所に任命されたよ
外様大名の中では別格の扱いだったんだ


まとめ
仙石秀久は豊臣秀吉の最古参武将として合戦で武功をあげる活躍をし、城持ち大名にまで出世を果たしました。ところが、九州征伐で大失態を犯してしまい、積み上げてきたもの全てを失ってしまいます。そこでも諦めなかった秀久は小田原征伐で大活躍し、大名へと返り咲きました。


宣教師ルイスフロイスは、
「秀久のことを恥とか慈悲と言った人間的感情を持ち合わせていない輩であり、できる限り盗み取ること以外目がなかった」と酷評したよ


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