
織田信長によって滅ぼされた大名朝倉義景!!
しくじり武将としても知られているよなー

義景の優柔不断な行動が災いの種となったのー

名門朝倉家を滅ぼしてしまった朝倉義景とは一体どんな人物だったかみていこう!!
朝倉義景の年表




将軍足利義輝から「義」の字を賜るほどの名門家やったんやなー


いつまでも将軍家と関係を保とうとしたことが
滅亡へ突き進んでしもうたんじゃろな


朝倉義景の相関図




北陸地方では一向一揆との対立が目立つなー


北陸は地元民の団結が強くて治めるのが難しい土地なんじゃ
前田利家も一向一揆には悩まされておったわい


朝倉義景の誕生
朝倉家はもともと但馬(兵庫県)でおこり、「日下部」の姓を名乗っていました。その後越前(福井県)に移り住むようになってから「朝倉」の姓を名乗るようになります。応仁の乱の動乱に漬け込んで勢力を拡大し、一乗谷を本拠地とします。そして分国法を定めるなどして戦国大名として地位を確立しました。
朝倉義景は1533年、越前に朝倉孝景の長男として生まれました。父の早世により16歳で家督を継ぎますが、歴代の当主が善政を敷いていたり、重臣朝倉宗滴のおかげで目立った混乱もなく前半生を過ごしました。


孝景はがんばって政治をしなくても混乱が起きなかったから
芸術に傾倒してしまったんやろなー


将軍を上洛させるチャンスをのがす!?
義景は朝倉宗滴の助けもあり勢力を拡大することに成功しており、祖父の時代から続く加賀(石川県)一向一揆を制圧しようとしました。ところが合戦の途中で宗滴が亡くなり、加賀侵攻を断念。


名将宗滴がなくなっても一乗谷は繁栄しておったから
朝倉家には深刻な問題は起きなかったんじゃ
将軍足利義輝が暗殺されると、京都から公家や僧侶、さらに義輝の弟義昭もが義景を頼って越前に落ち延びてきました。


義景は次期将軍足利義昭の来訪を喜び匿ったというよ
義昭は将軍の座に就きたかったため、義景に上洛の後ろ盾をするように要請。義昭は見返りとして、義景が悩まされてきた一向一揆を制圧しています。
ところが義景は上洛に気が進まず、要請を拒み続けました。結局義昭は勢力を拡大していた織田信長を頼り、上洛を果たします。


義景は妻や子が病死したことによって気が滅入っていたというぞ


信長に滅ぼされる!!
将軍の後ろ盾を得た信長は「義昭の命令」だといい義景に上洛するよう要請します。ところが義景はこれを拒否。信長は将軍に敵意ありと大義名分を掲げて朝倉領へ侵攻。


義景は下剋上で成り上がった信長の命令を聞きたくなかったんやろなー
信長が義景と争っていることを知った浅井長政は、信長に奇襲攻撃を仕掛けます。浅井朝倉連合軍は織田軍を追撃するも、豊臣秀吉や明智光秀の抵抗に遭い、信長を仕留めることができません。
その後、軍を立て直した信長は、姉川の戦いにより浅井朝倉連合軍を敗北に追いやりました。
1572年、武田信玄が上洛しようと動きだすと、信長はあわてて美濃に逃げかえりました。そのまま義景が信長を挟み撃ちにすれば、信長を討ち取ることが可能です。ところが義景は大雪を理由に進軍を拒否し、信長を討つチャンスを逃します。


これには信玄公はかなり激怒し、
義景に手紙を送りつけたというぞ
信玄が亡くなると、信長は朝倉侵攻を再開し、義景をどんどん追いつめていきます。朝倉景鏡の裏切りにあい、義景は一乗谷で亡くなりました。


まとめ
朝倉義景は名門朝倉家に生まれましたが、優柔不断な性格からチャンスを掴むことができず、朝倉家を滅亡させてしまいました。


義景は武将としては活躍できなかったけど、文化人としては活躍していたみたい
一乗谷からはベネチアのガラス容器が出土したりと、交易は盛んだったよ


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