
荒木村重は信長の全盛期時代に謀反を起こしたことで有名な武将やな

村重は織田家で順調に出世したにもかかわらず
なぜか急に謀反を起こしたんじゃ

村重にいったいなにがあったんだろう?
今回は荒木村重の生涯をみていこう!
荒木村重の年表




村重は信長の家臣として出世して力をつけたんやなー


信長公に仕える前も、
主君を追放したり、有力武将を討ち取ったりと、優秀な武将だったんじゃ


荒木村重の相関図




信長に謀反をおこした村重が官兵衛を幽閉したことは有名な話やなー


有岡城が落城すると
文化人だった村重は1人で茶壺をもって逃げたんじゃなー


荒木村重の誕生
荒木村重は1535年、摂津(大阪府)に荒木義村の長男として生まれ、父は摂津の豪族池田勝正に仕えていました。


幼い頃の村重は大食漢で、人一倍力が強かったというぞ
主君池田家でのお家騒動で、村重が活躍すると、一気に池田家で頭角を表します。また近隣勢力を討ち破るとさらに発言力が増し、畿内の実力者三好三人衆と協力して池田家をのっとりました。


村重も下剋上で成り上がって出世した武将じゃなー


信長に仕え活躍する
池田家を掌握した村重は摂津のライバル和田惟政を討ち勢力を広げ、勢力を拡大していた織田信長に仕えるようになります。
ところが信長にとって村重は織田家臣池田勝正を追放した人物。印象はよくありせん。
そこで信長は村重と面会するなり無言で剣先にまんじゅうをさして鼻先に突きつけます。これ村重は口を大きく開けて食べ、信長を喜ばせました。


村重もすごいけど
信長はやっぱやることがちがうよね
信長に仕えることになった村重は室町幕府滅亡のきっかけとなった槙島城の戦いや越前一向一揆の鎮圧、本願寺との石山合戦で活躍しました。


村重は戦で活躍したから
信長公に信頼されておったんじゃよ


(太平記英雄伝
信長に反旗を翻す!!
村重のいとこであり重臣の中川清秀が本願寺へ兵糧を横流しにし、これを信長に知られることを恐れた村重は重臣の高山右近と清秀の説得により謀反を起こします。


清秀がなぜ兵糧を横流しにしたのかはよくわかっていないんじゃ
この時信長はたくさんの敵を抱えていたため、村重に弁明に来るように伝えますが、村重はこれを無視。怒った信長は村重の居城有岡城を攻め込みます。


信長は一度裏切ったものを許さない性格だったから
村重の重臣たちはもう許してくれないと思って、村重に謀反を起こさせたというよ
しかし、村重謀反の元凶を作った中川清秀が信長からの金と加増により寝返り、高山右近は信長の宣教師からキリスト教を破門にするぞと脅されて寝返りました。
これにより村重は窮地に陥り、信長に兵糧攻めされたことで有岡城から逃亡して毛利家に逃げ込みました。このとき村重の妻子は市中引き回しのうえ、京都六条河原で斬首されたといいます。


村重は妻子を見捨てて生き延びたんじゃが
この時の処刑で600人以上が殺されたんじゃ
その後村重は数々の非難を浴びながら逃げ込み、隠遁生活を送りました。そして名前を「荒木道糞」と改名。
最期はかつての戦友豊臣秀吉が村重の惨めな姿をみかねて、秀吉の相談役として取り立てたのでした。


村重は茶の湯を嗜み
千利休の10人弟子の1人じゃたんじゃ


まとめ
荒木村重は主君を追放し下剋上を成し遂げることで出世を果たした武将でした。
しかし、急に謀反を起こして信長に叛いたことで世間の非難の的となる人物にまで没落してしまった武将でもあります。


村重の子供のほとんどが殺されたけど、
村重の末子だけが助かって、浮世絵の祖「岩佐又兵衛」となったんだ
晩年村重が一度だけ又兵衛とあったときはずっと無言だったという


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